画廊
少しだけ時間が余ったついでに、その扉を開けてみた。通りに面した大きなガラス窓の向こうに見えた一枚が気にかかって、小走りで渡るとそのまま入った。がらんとした空間には数点ほどかかっていて、どれも風景画だった。気にかかった絵はほかの絵とはちがってずいぶんと大きかった。それは見知らぬ町の遠景だった。丘の上に立ったようにひろがって見えた。灰色の空が画面の上半分を占めていて、その下にビルがひしめきあいながら消失点へと向かっていく。どのビルも素地は白く、窓はすべてが閉じられているように黒く塗り潰されており、そのくせ刷毛目が油の光沢で光っていた。そのひとつに引き寄せられた。ほかとなんら区別はなく、数多ある四角い窓はせめぎあうように羅列され、ただ塗りこめられているだけなのに、なぜかそのひとつがこの世の中心のように私を引き寄せてやまなかった。誰かがそこにいて、こちらを見ているのかもしれなかった。私は息を呑んだ。私は振り向いた。
この汲出しは
文祥シリーズのひとつである。すでに紹介した「果物鉢」を参考にしていただければ、当窯のこしらえる器の機微をすこしは分かってもらえるとおもう。本分を尽くすこと、それだけでこしらえた。それを素朴と呼ぼうが一向にかまわない。茶を汲もうが、酒を酌み交わそうが、想像が口を開く、汲み出す、口にする。
商品名 汲出し 文祥
素材 泉山陶石、白川釉石、土灰
製造 文祥窯(佐賀県伊万里市)
デザイン 猿山修
制作 東屋
寸法 径88 × 高56mm
容量 185ml
価格 3,300円
※ 入荷未定
〇 汲出し 文祥
〇 とり皿、とり鉢。
小さな食卓
ふあふあと、泳ぐ箸は行儀がわるい、と母に叱られた。ぱしんと手をはたかれて、箸が飛んだことがあった。父はなにも言わなかった。ただ黙って母の料理を食べていた。なにも言わないのがいちばんこわかった。そんな父を思い出すときまって『小さな恋のメロディ』のワンシーンが出てくる。食卓で主人公の少年が父親の広げて読んでいる新聞に裏から火をつける。燃え上がって穴があいて真っ赤な顔が向こうに見えて、それからが大騒ぎ。いちどでいいから、やってみたかった。おこられてもなんだか楽しそうだったし。小さいころ父といっしょに見に行った映画だった。ほかにもっとちがうのがあったんだろうに、それでもわたしの好きな音楽や映画はあそこらへんから影響を受けたのだと思う。そういえば、父がちゃぶ台を根こそぎひっくり返したことがあった。わたしは箸とお茶碗を両手に持ったまま、さいしょはなにが起こったかわからなかった。ごはんがお茶碗の形のまんま、ぼてっと畳の上に落ちていた。母が声を出して泣いた。母が泣いたのを見たのはそのときがはじめてだった。理由は忘れた。きっと大人の事情だ。ひざまづいてごはんをお茶碗に戻している母を見て、わたしも泣いた。あのころの食器がまだ実家にある。父の大振りなごはん茶碗もあった。当時、食卓には迷うぐらいのお皿なんて並んでもなかった。箸が泳いだのはきらいなものしかなかったからだ、きっと。小さな食卓だった。父の好物だった魚が多かった。父の魚の食べ方はそれは見事だった。骨が魚の形を保ったまんまそれもしずかーに横たわっていた。それを見て見ぬ振りをするのが好きだった。わたしは魚はきらいだ。ましてやきれいに食べ終わったこともない。そこは父に似なかった。父も母も取り立てて言うでもなかった。ようは残さなきゃよかったのだ。とり皿の部類なんてなかった。必要もなかった。あのころを思うと、「とり皿」「とり鉢」なんて聞いて、いまでもちょっと贅沢な気がする。
この皿は
「とり皿、とり鉢。」と申します。轆轤でぐるりとこさえた、まずは懐の浅ーい「とり皿」は。おひたしや漬物をちょこんとのせる銘々皿として。あるいは塩辛、つまみ、酒のあてになんぞ。ときに醤油の受けにだってちょうどよい。いっぽう懐の深ーい「とり鉢」は。鍋物のとり鉢、そりゃもちろんのこと。締めの雑炊にもうってつけ。小腹が空けばチャーハン、スープ。日課のヨーグルト、果物だってお引き受けいたします。食材が、ぱっ、と映えるようにと黒(海鼠釉)、白(柞灰釉)をご用意。「とり皿、とり鉢。」ってお声がけくださいませ。両者ともども朝昼晩問わず、いつなんどきなーんにでも駆けつけます。だって「ご馳走」ですもの、ね。
商品名 とり皿、とり鉢
素材 黒 黒土・海鼠釉
白 天草陶石・柞灰釉
製造 光春窯(長崎県波佐見町)
制作 東屋
寸法 とり皿 径120 × 高42mm
とり鉢 径120 × 高54mm
価格 とり皿 2,750円
とり鉢 2,970円
〇 山茶盆
どうしようもないわたしが歩いている
「来年からは新しい人間になり、新しい生活を送ろう」だって納得のいく句を次々詠んでみたいんだもの。あるとき種田山頭火は大好きな酒を控えてみようと思いたつ。でもだめだった。思うに、一杯やりながらそう書いたのかもしれない。日記『行乞記』である。日付は12月31日。その直後を読めば、こうもある。「ともあれつつしむことだ。ま、三合ぐらいは許されるかしらね」みたいな。そもそもつつしむってことは断つわけでもなかった。だから、1月1日、やっぱり飲んでいる。なんだかおかしい。31日の日付のなかに、好きな句がある。「雨の二階の女の一人は口笛をふく」 なんかいい。このなんかがずるい。
だれだって年のくれにでもなれば、来年からはこうしよう、こうしたい、なんて口には出さないまでもどこか前向きなことを一つや二つ思ったりするものだ。去年のくれ、わたしだってそうだった。
「おだやかに沈みゆく太陽を見送りながら、私は自然に合掌した、私の一生は終つたのだ、さうだ来年からは新らしい人間として新らしい生活を初めるのである。」(種田山頭火『行乞記』より)
「来年から」「来年になったら」とは、この四月に聴くにはどこかかなしい。来年からでいいわけがない。願った今年はちゃんとある。
この盆は
山茶盆。来客の折、茶や御菓子をもてなすときとか、ひとりふたり晩酌やコーヒーなどを愉しむときとか。住まいのなかでときを選ばず重宝する小ぶりな盆です。挽物(木材を旋盤もしくは轆轤に固定して回転させながらカンナで削っていく職人技のこと)で無垢の一枚板を削り出した肌理の美しさを、まずはご堪能ください。欅、栃、杉、松の四種類をご用意しました。どれも板目の美しさと耐久性にすぐれた素材ですので、お好みでお選びください。表面はあえて塗装はせずに無垢のまま。シミなどが残りやすくはなりますが、使っては拭いての繰り返しで、渋みをまして目にも愉しく手になじみます。
商品名 山茶盆
素材 欅、栃、杉、松
製造 但田木地工房(富山県庄川町)
制作 東屋
寸法 径240 × 高18mm
価格 各8,910円
※ 3番目の写真上から、4番目の写真右から、欅、栃、杉、松
となっております。
〇 箸箱
そうかんたんにかたづけないでよ
あたしのはなしをあたしのことを
ことばは口に出さないとわからないことが多い。どんなに仲のよいひとにだって、そうかんたんにはとどかないとおもっておいたほうがいい。ありがとう、ごめんなさい、さよなら、またね、おはよう、おやすみ、いってきます、おかえり、いただきます、ごちそうさま。みんなみんな、ことばはいつもそとで生きていく。声になる。それでも、あとになってあのときちゃんと言っておけばよかったとか、だけどもう間に合わないんだとか、そうわかって、くるしくなって、だから胸にしまうだけじゃだめなんだと後悔して。
次なんてないのに。
なんでだろう。くまのジローを見ているとそうおもった。ジローはぬいぐるみだけど、私の目を見ている。
夫がなかなか帰ってこないので、ちがうことかんがえようとジローからはなれてキッチンを掃除しはじめる。
「ことばはかたづけちゃだめなんです。整理されたことばなんていりません。整理してどこにしまったかわすれてしまうような文章なんてぼくは読みませんから」「そもそ余計なものなんてないんですよあなたがたに。なにかつたえようなんておやめなさい。ことばはそとでお散歩したいのです。放ってみなさい」おもしろいこと言う先生がいた。
私たちはいつもいっしょにいてそれがあたりまえだとおもっている。わかりあえる、なんてほこりをかぶった置物だ。無力だ。わかってる。ふりかえるとジローと目があう。おまえのことじゃないよ。水がながれつづけている。スポンジをしぼって蛇口を閉める。時計を見る。
「次なんてないのに」
どうしよう。時間が止まらない。
この箸箱は
たとえば食器棚のなかで、「ここがあなたの定位置ですよ」って、かたづけるスペースをこしらえておいてあげたい。上手にかたづけてはおきたいけれど、かたづけたっきり、出番がなくなってる、なんてそれもちがうし。さっと取り出して、どうせならそのままテーブルに置いちゃえ。そーゆー収納箱、あったあった。箸が取り出し易いようにゼツミョーな角度をつけて、国産ニレの木を削り出しでこしらえたという。箸やカトラリーだけではおさまらない、鉛筆やペンを入れてデスクにだってどーぞ。
商品名 箸箱
素材 楡
※木地仕上げ(写真左)/ 胡桃油仕上げ(写真右)
製造 四十沢木材工芸(石川県輪島市)
制作 東屋
寸法 長280 × 幅63 × 高37mm
価格 木地仕上げ 5,830円 / 胡桃油仕上げ 6,160円
〇 ステム
カタカタ鳴る
序破急の破は、型どおりに物ごとは進まずに破れるから、よって展開はその名が示すとおり開いていく。散歩しているとふと、そんなことが頭をかすめた。坂道を上り切ったとき、その向こうにはなにも建物の見えない、雲が流れる空だけを見たからだろうか。つまり型にはまってもその内容をもってすれば型どおりにはならなくて、意の外へと導いてくれる。その内容とは。まずはいいと胸を張って言えることだ。自分が自分を褒めてあげられるすなわち「私」のことである。型あってしかり、型から入ってしかり、けれどもその先があることを「私」は分かろうとすること、「自分を疑えってことだよ、〇〇くん」そのひとはこうも言ったのだった。型におさまればただの型、しかし型なきものはすぐにガタが来る。うまく言うなあと思ったのだろう。グラスの水を一口飲んだ。いつもの照れかくしだ。規則を駆使して自由になる、という言葉がある。規則を無視して、自由、なんて言ってると痛い目にあう。そういうことを分からないままデザインというコトバに足を載せてふんぞり返っている人。ふと静かになった。声が途切れた。「なあ。〇〇くん」僕はそのひとを見た。そのひとは通りに目をやっている。「きみにアートをやらせてるおぼえなんてないんだよ。わかるだろ、そのぐらい」グラスが音を立てた。カタ。膝がテーブルに当たった。ガタ。俺の言うとおりにやれって、そう言えばいいのに。俺が規則だ、俺の言うとおりにやってれば間違いはないって。遠回しな言いよう、だけどけっきょく溢れ出す言葉に追いつけなくて。ほんとうのところ人と話すのが大の苦手なのだ、それを悟られまいとするのか、ときに横柄に見え、それでも言葉は選ぼうとする、でも二進も三進もいかなくなって。そんなときどこかに手とか足とかぶつけてしまう。腹が立つひとだった。〇〇くん、と言うときはだいたい怒っている。そもそもひとの目を見て話さない。だけどそのひとは、僕をいつもかわいがってくれた。時折諭す、なだめる。そして褒める。褒めるときは大阪の言葉が全開になる。照れるのだやっぱり。でも全開で褒める。こっちも照れる。不意にごはんに誘う。まったく飲まないひとなのにずっとつきあう。歌が上手かった。『ムーンダンス』を流暢な向こうの言葉で歌う。キザ、ではおさまらない、「すごいなあ」って声を漏らした。そういう場に流れてしまったとき、それでも頑なに歌わない人がいるけれど、そんなふうにそのひとも見える、だけど歌うときはしっかり歌い、でも歌ったあとは何ごともなかったかのように座る。僕がそのひとのことを大好きだったのは、そのひとが見誤って(たまにだったけれど)、失敗したとき(プレゼンとか)、そういうときちゃんと目を見て謝ってくれる。そのときだけ目が合う。それ以外の言葉は付け加えることもしない、ただ謝る。目は嘘をつかない。そのひとの目は鋭すぎるのだ。その自覚もあってなのか、懸命にもみえるように目を合わせようとしなかったのかもしれない。だんだんそのひとがかわいらしくも思ったのだった。目で、人を傷つけやしないか、そう思っていたのだろうか。
〇 四寸皿「赤丸」
取り皿
いつも行く飲み屋には大体いつもと同じ面子で、ほとんどいつもと同じような戯言を肴に、これもまたいつものように笑い合いながらほんの数時間を過ごすのだけれど、そんなときふと気付いたのは取り皿である。取り皿に、いつのまにかいろんなものがのっかっているのだ。それも僕のだけ。そうか。というのは、しゃべるほうが優先されてなかなかツマミを口に運ばない、だから頼まれた数品の料理皿にはそれぞれぽつんと一つだけ残っている。焼き餃子とか揚げ出し豆腐とか。きっと僕宛なのは分かってはいても、この期に及んで、一つだけということに手を伸ばすことが憚られる。そのうちそういうことも忘れてしまってまたしゃべっているわけだから、ほかの連中がいつのまにかそっと配給してくれるのだ。そうやって取り皿はいつのまにかいろんなものがのっかっているのだった。万事、料理がのっていた皿はやっと片付けられていくのだけど、別に皿を片付けるために取り皿があるわけではないし、連中だって片付けるためにそうしているわけでもない(ちょっとはそれもあるのかもしれないけれど)。ようはまわりに気を遣わしてしまっているのにかわりはなく、どっちみち面倒のかかるやつなのである。というわけで、手もとの取り皿には冷たくなったツマミの面々、たまに齧りついてはまたしゃべる、大して面白くない話にも笑ってくれる、片付けられるべきは僕なのかもしれない。よって取り皿は取ることもないまま、のせられて、のせられているのをいいことにしゃべりつづける。
給食も食べるのが遅かった。クラスメートの机が一斉に後ろに下げられても、逆さまの椅子の谷間で挟まれるようにして食べていた。そのうちオーナリが長箒の柄を切先さながら僕に向けて「めんどくさいやつ」ぎっ、と睨みつける。それでもかまわず埃の舞うなかで食べつづけた。「たっちんはそうやっていつもサボるんだから」学級委員のタエちゃんが言う。「違うんだよ、聞いてよだって」もぐもぐ。「ずーっとしゃべってるからよ」とミドリちゃんは振り向きもしない。黒板の上のほうを拭いている。ミドリちゃんはクラスで一番背が高い。そういえば、たしかにあのころはよくしゃべっていた。お調子者だった。もう少しあと、ある時期から、誰ともしゃべらなくなった。いろいろあったのだ。そういえばミドリちゃんは早くに結婚して双子を産んだんだ。とここでとやかくそういうことについてしゃべり始めると切りがないから止しておくけれど。飲み屋では、小学生並みにしゃべる大人になってしまった。面倒をかけているのはやっぱりかわらない。
「自分で取りなよ、ねえ」
女の子の強い声がしてハッとした。ぎっ、と向こうから僕を睨みつけている。ぼ、ぼく? 初対面、黒づくめのパンク、シド・ヴィシャスぐらいあるのか、腰が高い。僕はうろたえた。あわてて取り皿、取り皿、って探すけど、えーっと、と目を上げる。すると取り皿らしきが人から人へと回されていろんなツマミがのせられてどうやらこっちに近づいてきて「はい」だれ?「あ、ありがとうございます」僕はその取り皿を取るにいたる。「取るのは取り皿じゃねーし」って叱られはしなかったけれど女の子とまた目が合った。えーと、いったい今日はなんの新年会だっけ。知らない人たちに囲まれて僕は何をしゃべっていたんだっけ。たくさんのっかった取り皿片手に、取りあえずそばにあった唐揚げを一つ、取ってみる。のっからない。彼女は隣の子としゃべっていた。ミドリちゃんの顔を思い出した。「寝てません?」誰かが言った。
この四寸皿は
赤丸、と名付けられた古伊万里の「写し」である。熊本の天草陶石を素地とし、長崎波佐見でこしらえた。轆轤で手挽かれたのち、素焼をし、秞をかける。それから本焼き、再度轆轤の上で、すぅーっと筆を走らせ上絵三色の独楽紋を描き切る。さらに上絵焼き。特筆すべきは赤の色だ。いわゆる「明か」である。その発色はかつては鉛に頼っていたのだけど、食の安全を鑑み鉛抜きで試作を重ねて重ねて、独自の「明か」。見つけちゃった。
むかしむかし17世紀から18世紀へと遷るさなかに誕生したと言われる伊万里。当時は「今利」とか「今里」だったらしく、なるほど、「今」かあ。じゃあその伊万里の風情を2018年の「明け」にと。明かしちゃえば、回る独楽に見立ててまずはご紹介、と思った次第。どうか円滑にことが回りますように、なんて遅ればせながら新年めでたし、めでたしなのだけど、そっか、赤丸。それも急上昇、となればなおのこと縁起もよろしいようで。
商品名 赤丸
素材 天草陶石、柞灰秞、上絵具、呉須
製造 光春窯(長崎県波佐見町)
デザイン 杉本理
制作 東屋
寸法 径135 × 高28mm
重量 130g
価格 3,960円
※ 入荷未定
〇 銅器/茶匙
反復と加減
父は製本屋だった。私がまだ、いわゆる子供のころ、工場を手伝うことがままあった。丁合いを取るのがおもだったが、あまり好きではなかった。機械の音がうるさいし、機械がやっているそばからその数十倍の手作業の煩わしさがいやだった。父の手はそれでも捗っていた。同じ動作が同じ本を拵えつづける。べつに捗っていたわけではないのだ、手を動かしつづけることがあたりまえのことで、それが父の生活だった。そのころは、そういった生活にいっとき付き合わされているだけだ、そう思っていた。大した日数でもないのに、同じことを繰り返すことを強いられている、そんなふうにしか思っていなかった。どうにも煮詰まったときはトイレにしばらくこもったこともある。こうやって時間がたてば、何も見ていなかったことぐらいは分かる。父の毎日は私の毎日で、父の生活は私の生活でもあった、ということを分かろうともしていなかった。
昼休みに父はインスタントコーヒーを入れる。瓶詰めの顆粒だ。蓋を開けるとどんなに中身が減ってもあの匂いがする。あれは香りではなく、押し付ける匂いだった。糊の匂いのする工場をますます際立たせるのにうってつけだった。よく憶えているのはそのときの父の手つきだ。蓋を開け、その蓋の裏の縁に、コンコン、と瓶を傾け軽く小突くようにして二回当てる。すると瓶の中から顆粒が流れ落ち、今度はその蓋の顆粒が二つのカップの縁にコンコン、コンコン、とそれぞれ等分に分けられる。それから魔法瓶の湯を注ぐ。どこを取っても同じ加減である。私はうつむいてじっと顆粒の溶けていくのをながめる。いつも同じ、同じだから味も同じ、そうやって昼休みも同じ繰り返しだった。きまって同業のおじさんたちが入れ替わり訪ねてくる、それも同じ。父のコーヒーを必ず飲む、それも同じ。コンコンと、コンコンと飲んでいる。どう見ても暇つぶしにちがいなかったが、それも繰り返される。あるとき、そのおじさんのなかのひとりから、父の若いときの話を聞いた。父は「レギュラー」という渾名で呼ばれていたと言う。真面目でこつこつと、間違いのない男。私はそういう父がつまらないと思うのに、そのおじさんはそれこそコンコンと語ってみせるのだ。「おやじさんの仕事を見れば分かるだろ。仕事というのは出来上がりのことだ」父は奥の部屋で背を向けて、コン、コン、と紙の束を揃えていた。
父が拵えた本をたまに手に取る。これと同じものが今もそれぞれどこかにちゃんと壊れず存在しているのだ、と思っている。それが人を介して同じものではなくなりながらも等しく残っていることを思う。病気で倒れ、手が動かなくなってしまったとき、父は千切られた。徹底的に。そして決壊した。無口な父からあのときばかりは粗い粒の止めどなく流れ落ちるような音がずっと聞こえつづけていた。そして、消えた。
私は本を手に取るが、その私の手もとに、コンコン、と何かを言う。同じものを作る美しさを、遠くに思う。
この茶匙は
銅器である。銅は抗菌力があり茶器に適す。この茶匙は銅地金に錫めっきを施してある。平型と梨型。もちろん仕事は丹念である。同じ素材で茶筒もある。大か中なら、平型に限ってだが茶筒の中蓋の上に載せることができ、上蓋を閉められる寸法に設えてある。茶匙と茶葉は別々に収められ、茶葉をいためることがない。(茶筒の詳細はこちらまで。)梨型は、平型に比べて深い作りだ。茶葉に限らず、たとえばコーヒー豆や調味料など、目安のスプーンとしてもお使いいただける。平型か梨型か、匙加減でお選びいただきたい。
商品名 銅器/茶匙
素材 銅、錫めっき
製造 新光金属(新潟県燕市)
制作 東屋
寸法 平型 長70× 幅35× 高5mm
梨型 長90× 幅44× 高13mm
価格 平型 1,540円
梨型 2,640円
〇 徳利
宿る
手の触れることの、おどおどしてしまうあの感覚を忘れて久しい。女の子の手のことである。目の前でしゃべることすらできなくなってしまう、だらんと下がったその手を取りたい、そう思いながら、その手の甲に隠されてしまっている手のひらの、きっと柔らかいだろう感触を想像して、ぼーっと下を向いてしまっていた。赤いミトンをした日でも、その内側の手が赤くなっているか、気になっていた。寒いね、と言って、両の手をこすりながらそこに息を吐く、文庫本みたいにすこーし開いたその手のなかにどんなお話があるのか、読みたくてもそうかんたんに見せてくれなかった。「読めない」のが、あのころの大切な物語だった。
がさつになんでもかんでも触って、音を立てて置いて、また次のものをひょいとつかんで持ち上げて、ほんとうに目はこころは見ているのかも疑わしい、と考える時間も持たせてくれないまま、またカタンと置く音がひびく。そのひとのせいではない。その「物」に、なにか力が足りないのではないかと思うことがある。その力は、なんという言葉が相応しいのか、ずっと考えている。「物語」がないのだろうか、そもそも言葉を持っていないからだろうか、気楽とは手軽とははたして力なのだろうか、とか考えている。里見弴が「『たい』を『たい』せよ」と言ったことを思い出す。互いに「触りたい」の「たい」のところに強調を忘れてしまっている、そんな気がする。
この徳利は
萩焼である。山口の大道土を主成分とする素地に石灰釉を施したものだ。と、そう簡単に要約できるものでもないが、低温でじっくり時間をかけて焼くため、焼締は弱く、その分ざっくりと柔らかい印象で重宝されてきた伝統がある。が、この「hagi」と名のつくシリーズは、従来のそれよりも焼締を強くし、徹頭徹尾「フォルムを生かす」ことに努めた。高温で、およそ1,290度にまで上がれば「萩」特有の赤味を消すおそれもあるが、軟調で土味のまま、たとえば「雨漏」と称される一見経年変化の景色として愛でられるものでも、そこからカビを生じさせてしまうただの汚れとなるのなら、十分焼き締めることで、窯変による釉美こそを保つこと、それを美しとした。
1,200度後半、それでもなお「萩」の持つ特異な釉調をこしらえる。それには、窯の中でどこに配置して焼成するのがよいか、温度管理が試される職人の技がある。あるいは、底部(畳付)にもあえて施釉する。器全体に釉を掛けて焼成するのは手間のかかる仕事だが、膳やテーブルを傷つけないよう、こころ置きなく万事に使ってもらいたい思いを込めてみる。
萩の窯元の底力が、萩の現在形を強く輪郭をもって描き切る、長くお付き合いしてほしい「hagi」シリーズの酒器である。
商品名 徳利(小、「hagi」シリーズ)
素材 萩土、石灰釉
製造 大屋窯(山口県萩市)
デザイン 猿山修
制作 東屋
寸法 径80mm × 高115mm
容量 約180ml
価格 5,940円
〇 ワインクーラー
空は青く明滅する
駅前の巨大なクリスマスツリーが解体されている。夕刻その光景を見上げながら角打ちで一杯やれば終電である。電車は急行明日すら早く来る気がしていつの間にか近所の公園を歩いていた。家に帰ると映画は点けるが見ているようで寝てしまい明るくなれば今日がある。さびしくはないかと誰かの声が聞こえて歯ブラシだけがその声を打ち消すみたいにせっせと動いている。今日は休みだと思い当たればいつの間にか近所の公園を歩いていた。公園を抜けるとヘルメットをかぶった作業員が梯子にのぼって電柱の上にいる。その光景を見上げながら取り付けられるのは監視カメラだとわかってひとたび道行きを眺めると等間隔に梯子にのぼった人がつづいている。取り付けるということはきっと何かが起こりそうな予兆を意味するし何かが起こりそうな場所にカメラを設置するのは人である。カメラを見上げながらその先のずっと向こうには空があってこっちを見下ろしている。何かを映しては消してまた映す。もう僕らじゃない何かも映しては消してまた映す。
このワインクーラーは
見てのとおり木製である。木製がゆえに熱を伝えにくい。よって氷を溶けにくくして万事酒を冷やす。そのくせ持っても手は冷やさない。
木材は木曾椹である。特段椹は水に強い。強いがただし留意を飲み込んでご使用いただきたい。まずは水を充分に吸わすこと。手始めに水を満たして置いておく。すると椹は膨らんで密になる。よって水漏れを防いでくれる。表面に水滴も付きにくくする。手間のかかる道具だが手間をかけて永くお付き合いできるすぐれものだ。水を吸ったり乾いたり。そうだ。生きている。道具も暮らしている。
タガはめったやたらに外れない。が万が一はいつでもお声をかけていただきたい。お直しさせていただきます。
商品名 ワインクーラー
素材 木曾椹、銅
製造 山一(長野県木曽郡)
制作 東屋
寸法 径186mm × 高230mm
価格 15,400円
〇 姫フォーク
姫
母はずっと「姫」と呼ばれていたらしい。伯母から「あの子は姫だからね」と耳打ちされたこともある。小さいころだったからそのときの状況は思い出すことができないけれど、あれはきっと嫌味だった、蚊を払うように耳はちゃんと憶えている。父からも生前「あのひとはむかしっから姫じゃけえのお」と呟かれた。このときのことは今も憶えている。母は石みたいに炬燵で固まっていた。だれとも目を合わそうともしなかった。ま、詳しい話はよしておくけど。要は、お転婆でわがままでそれでもまわりからは大切に扱われて、持ち上げられるままいつのまにか先頭を歩いている。そのくせだれかいないと何んにも務まりそうにない。そんな母が年を取っても姫でありつづけるのは、想像に難くないことだ。ひとはそんなに変わらないし年を取ればなおさらのことである。けれど、姫もからだが弱れば、お転婆はただの婆である。家から一歩も出ないとなれば、城の上にずっと幽閉されているみたいで悲しい。下から「姫、姫!」と叫んで、たまに窓から顔を覗かせる、ちょっと安心する、という繰り返しだ。遠いとなおさら姫の声はか細く聞こえる。
この夏帰省したときに、朝、父の部屋からテレビの音が聞こえる。母は違う部屋でバラエティを見ている。「なあ、あっちテレビつけっぱなしじゃん」仏壇のあるその部屋を開ける。『題名のない音楽会』をやっていた。父が毎週欠かさず見ていた番組だ。線香の残り香を嗅ぎながら不意に、父がそこにいる、そこで聞いている、届いている、と、はっきりと分かったからびっくりした。振り返ると母はバラエティで笑っていた。
あのとき、「たのんだぞ」とかたく握り返してきた手は「姫のこと」に違いないと今になって思い返すのだ。「たのんだぞ」なんてありきたりだけど実際言うんだ、って思ったよ。父の写真の顔が姫を目で追う爺のそれに見えた。
この姫フォークは
ただならぬフォークです。あるときは黒文字のように、あるときは爪楊枝のように。けれども心地のよい重みが、口に運ぶたんびクセになる。箸が止まらなーい、ならぬフォークが止まらないのだ。
素材は真鍮。使い易い形を見つけると、それはフォークの原形、ヨーロッパの昔むかしに還っていきました。洋のようで和の面構えにもなる。小さいけれどやっぱりただものではおわらない。
姫、ヒメと 爺が呼ぶ声 秋の口
和菓子に果物、チーズやオリーブなんかにも合うあう。8センチちょっとだけど、ながーく使っていただけるその名も「姫フォーク」。くれぐれもどこに行ったか探さぬよう、目のつくところにお見知り置きを。
商品名 姫フォーク
素材 真鍮
製造 坂見工芸(東京都荒川区)
デザイン 猿山修
制作 東屋
寸法 長87mm × 奥行6mm × 高5mm
重量 5g
価格 5,500円(5本セット)
〇 お酢入れ
餃子の包み方
繰り返しの所作を目前に照らし出し、注視すればするほど目が離せなくなるように。
ずっと見ているとそのことがそのことじゃないことに変わっていき、何か別のもっとほかにわけのあることに見えはじめてほしい。そもそもそのことがなぜ繰り広げられているのか、もっと言えば何がそこに閉じ込められようとしているかもわからなくなればなおさらいい。
本来そういうことじゃなかったような、あるとき、すべてはまちがっていたんじゃないか、といったようなこと、それ以前に真偽を問うこと自体が意味をなくし、目的は見失われ目的という言葉がまだ見つからなかったよき時代に戻ってふと振りかえった途端、そこに見えるものはたぶん今まで見たことのないような、それが旅、と片付けようとする言葉の旅さえもやめてしまいたい。そのときあなたは立ち止まっているはず。それこそ今まで味わったことのない感覚で、ただ単に。
たとえば自分の名前を何度も何度も書いていくと、書き順の虚構に不安は募り、名前という言葉そのものの疑いを疑い、文字がそのすがたを忘れ去って名前が付けられる以前のわたしと向き合っていることも気づかないまま、すなわちそうした瞬間が訪れることが待ち遠しいと感じ入るまではまだ序の口ではあるにしろ、わたしはわたしから離れてみたいという欲望の皮ぐらいは摘んでいる、そうでしょ。
その手であなたが遠い人に手紙を書いていたということ、その手であなたは大切な人の手を探しにかかっていたということ、その手を上げて大きく振っていたあなたがいたということ、そういったはるかむかしの遠い記憶が向こうからやってくることを待ち侘びて、いつのまにか、同じ方向に向かってみんな並んでいる。
このお酢入れは
餃子は酢だけ。醤油も辣油もいらない、と言う人がいた。
このお酢入れは長崎県波佐見でこしらえた。同じ九州の熊本天草で採れた天然陶石が素地の、磁器である。前回紹介した「醤油差し」同様に液垂れのない切れのよさが使い勝手の看板だ。「醤油差し」の頁をご参考にしていただきたい。
名は「お酢入れ」だが、云ってしまえばなんだっていい。前述の「醤油差し」で量が心許なければ、ちょっと大振りな、それこそ醤油差しにもどうぞ。
何を付けようがかまわないでしょ、とその人が言った。いちいち指図しないで、って。自由に食べたいの。叱られた。
先の「醤油差し」と対で使えばなおさら食卓を明るくしてくれる。あ、これもまた大きなお世話、かもしれないが、焼いてもみたくなるのです。
商品名 お酢入れ
素材 天草陶石、石灰釉
製造 白岳窯(長崎県波佐見町)
デザイン 猿山修
制作 東屋
寸法 幅92mm × 径65mm × 高81mm
容量 120ml
価格 2,530円
〇 チーズボードとチーズナイフ
はいチーズ
このごろはそんなふうに言わなくなったのかしら。どこでもかしこでも容赦なくシャッターまがいの音がするようになった。この合言葉ももはや死語なのだろう。それにしてもところかまわず万事がオーケーと誰が決めたのか、「撮るよー」の合図からはじまったあのころの『一枚』っきりがなつかしいのだった。
「ところで、あの<はいチーズ>とはいったいなんだったんだろう」と友人が言った。ようはタイミングの話である。<はい>で撮影者が投げかけて、<チーズ>で被写体が応える(復唱する、という意見も捨てがたかったけれど)、そこでシャッターを切るのは<チ>の瞬間であるはずなのに、<ズ>でカシャ、その間の悪さが口角の上がった笑顔を通り越し、口のすぼんだなんだか判然としない表情に、あ、今のはちょっと、と気に喰わないまま置いてけぼりを喰らったようなときもあったと言うのだけれど、<はいチ/カシャ>と<はいチーズ/カシャ>のちがいは出来上がってきた写真が露わにするのであって、別に楽しみにしていたわけじゃないけれど、という体でそれでもなんだかんだで気にはなって見るのだけれどけっきょく写りのせいにして、おれはそもそも写真嫌いだーなんて写真の裏に焼き増し希望の名前も書き込まないまんま、思い出なんかいらないテキな面をしてみることもあった「あったあった」まあもとはといえばまるで号令のような掛け声ひとつで笑顔をこしらえようとしていたこっちもこっちなんだけど、と友人は前置いてから「しかし写真のうまさは今もむかしも数少ないシャッターチャンスであることにかわりはないよな」とあくまで被写体には責任のないことを、とりとめもなくケータイをかざす女の子を横目に見ながらそのくせ声を張って言うのだった。
<はいチーズ>は、さりげなく差し出されるチーズに添えられた言葉で善しとしよう。「はいチーズ」そう言われて笑顔が自然と生まれればこれもまたタイミング、なのかもしれない。よって、酒もうまくなる。なーんて、友人はといえばメニューをぱらぱら開いてから「あったあった」と笑いながら店員さんを呼ぶのであった。
〇 土瓶
もうはじまってる、の?
今年はどうなるんだろうと思っているともう一月も終わりかけていて、今年はどうなるんだろうと思いながらいつのまにか桜の咲いているところを見ているんだ、きっと。そう言えばどのあたりから「来年はどうなるんだろう」と思いはじめるのか、多分夏の終わりがすぎたあたりだろうかと思いあたると、今年はどうなるんだろうと思いながら暮らすことが一年の大半と言うかほぼそれで埋まってしまうことにはたと気がついてしまって、ああ、今年をおろそかにしておきながら来年に希望を託してしまうことを、どうやら「一年」と呼ぶ、らしい。そうやってよくもまあここまで生きてこられたなあというか、生かされてきたというか、生かしてくれたというか、どのみち他力本願なのだ。
考えれば、なんでもかんでも道具に託すのになんだか似ているような気もする。お茶がおいしくいれられると聞き齧った急須で注ぐ茶は、ほらこの湯呑みで飲むとうまいじゃないかとか、いつもの米なのにその釜で炊かれるのを見れば、よくおかわりするわねえ、なんて言われる。フライパンや鍋、コーヒーメーカーなどなど何回も買いかえる人だっているって聞くし。今使っているものが今まさに使われているさなかにもかかわらず、あの新しくてもっとよさそうなの使ってみようかなあ、なんてよそ見して、ようは手許にあるものに愛情なんて注いでいないのだからそれに向かって「おいしく」だとか「上手に」だとか言ったところで当の相手は「わたしって、二番? 三番?」ちゃんと道具のほうに伝わってしまっているのではないかしら、となれば、おいしくもうまくもしてくれるわけがない。
よし、今年を台無しにはしないぞ、と考えながら、いいえ、はじまってもいません、とだれかの声がしてそらおそろしいんだけど、もっとにちにち付き合いを深めて、今年のせいなんかにはしないよ、って、自分を磨く一年でありたいとありふれたことを思うに至って、年末買ったばかりの塗り椀を拭いているのだった。これで食べた雑煮、おいしかったなあ。
でもって、目移りはじめに……。懲りないんだなあ、こればっかりは。
この土瓶は
三重の伊賀でこしらえたもの。先達の教え「土と釉は同じ山のものを使え」に倣い、伊賀の職人が、伊賀の土、伊賀の釉で、いうなれば伊賀づくし、「拘泥」の極みである(「切立湯呑」参考)。耐火度の高い良質な土を荒いままに手技で成形、釉はとろりと黒飴、もしくは澄みきりの石灰。見てのとおりフォルムは同じでも、重みと軽やかさでお選びいただきたい。かわらずおいしいお茶がはいりますよ。静ひつの急須、賑わいの土瓶。使い分ければ、これ幸い、かも。
商品名 土瓶(「伊賀の器」シリーズ )
素材 黒飴/伊賀土、黒飴釉、籐
石灰/伊賀土、石灰釉、籐
※直火にはかけられません。
製造 耕房窯(三重県伊賀市)
制作 東屋
寸法 幅150mm × 径115mm × 高175mm(弦含む)/
110mm(蓋のつまみまで)
容量 約530ml
価格 各10,120円
〇 丸急須 後手
後ろ手に廻して
両手を後ろ手に廻してとか、手を後ろ手にしてとか言われたりすると、だいいちどこで後ろ手にさせられる必要があるのか、べつになにか悪さをされるとかそういうことではなくて本を読むたびに出てくる言葉なのだけど、後ろ手の中には「両手を後ろにまわす」と辞書を調べればそのように手を入れて書いてあるわけだから、わざわざ手を頭に付けて言う必要はないのではないかと訝しく思ったりする。なんて、おおかたどこか高いところから眼下を眺めながら後ろ手にしてそんなことをばくぜーんと考えながら立っていることがけっこうあって不意に彼女に後ろ手を掴まれてはっとして、先生みたい、とか言われたりして、さて、あれはどこだったか、清水の舞台だったか、雲仙とか、三瓶山の上だったか、そもそもその彼女がどの彼女かもわからないまま、こうやって後ろ手にして絵を見ていると、じつは絵を舐めた先に自分の記憶を見ていることが多い。『睡蓮』が睡蓮じゃないことになっているのだ。
むかし、横浜の美術館でドガの彫刻の『踊り子』を見たときに、彼女は高ーい位置につんと後ろ手にして立っていて、気づけば私を含めて三人の客が同じく後ろ手に廻して彼女のこと見上げていたから面白かったんだけど、そのときの彼女とはもちろん『踊り子』のことである。
後ろ手に廻すと胸を張る。孤独に鍵をかけて、その孤独を了解する身振りだろうか。それともつながる手の恋しさだろうか。どちらにせよおまじないをかけているのかもしれない。
〇 バターケースとバターナイフ
こういったケースの場合
四月に近づくと、ときどき目にするのが、アパートやマンションを下見するひとたちである。今の「わたし」の生活には、どんなカタチで、どのくらいのスペースが見合うものなのか、今の「わたし」はともかく、これからの「わたし」のことでもあるから、今現在持っているものを基準にするよりも、焼くなり捨てるなり一新した「わたし」を嵌めてみるほうがよいだろう、とか、もちろん財布と相談しながら、思案のしどころである。外見を気にするひともいれば、外見よりも中身だというひともいるし、新しいほうがいいというひとや、古くても気に入ればそれでよいというひともいて、カタチもサイズも「わたし」の心地のよさの判定はひとそれぞれである。だから仮に、何びとかと同居、ともなると、ますます選択の前で足踏みを繰り返す。なにも住まいにかぎったことではなく、たとえば私たち夫婦などは、ありとあらゆる選択を前にして、つねづね途方に暮れるばかりなのだった。
散歩をしていると、目の前に車が止まって、後ろから降りてきた若い男女のふたりづれが、運転をしていたスーツのひとに促されながらそばの大きなマンションに入っていこうとするのだけれど、間取りの書いてあるらしい白い紙をひらひらさせている女の子のほうがすっと上を見上げるなり、すかさず音を立てて紙に目を落とすと、ちょこんと首を傾げて男の子の顔をまじまじ見るのである。ふたりは新婚なのかもしれないし、それより以前の、恋煩いなのかもしれない。何箇所ぐらい物色してきたのか、ひょっとしたら見過ぎて疲れてしまったのかもしれない。どこか重い足取りの、彼らがそのマンションに入っていったあと、私たちもつられて見上げてみて、いいところじゃない、なんて目を合わすのだけれど、あの女の子の顔には明らかに「外観が気に入らないし」と書いてあった。若いふたりの理想は交差しながら(ひょっとすると平行線をたどったまま探しまわっているのかもしれない)、見る前に跳ぶわけにもいかず、さて、どこで折り合いをつけるのか、これからの「わたしたち」の道のりは険しく、厄介な枝葉をぽきぽきと折りながらそれでもともに手を取り合って歩いていくしかないのである。
「生活のサイズ」を算出するのはむずかしい。けれども算段ぐらいしないわけにもいかない。身の丈だとか、標準だとか、いろいろな言葉の取り巻くなかで、心情はそれでもすこーし背伸びをしてみたくもなる。そもそも基準とか定番というものが、得てしてしっくりこないことのほうが多くなった気がする。平均値なんてもはや私の辞書から消えてしまっているし(最近、辞書そのものが見当たらないのだけれど)、ましてその基準やら定番とはいったいどの辺りで謳われているのかも見えてこない、ちりぢりの世間になってしまった。つながることが大手を振っているのは、それだけぶつぶつに千切れてしまったからである。手を振っても未だにだれも呼び戻すことができない場所もあれば、たまには手をつないで散歩する私たちがいるような、たわいのない場所だってある。
「小さいほうでいいんじゃない」
「でも、大は小をかねるっていうじゃないか」
私たちはけっきょく何も買わずに、散歩と称して家に帰っているわけだけれど、ベッドカバーを買うにはきっちりベッドのサイズから算出できることだし、この期に及んで、小さいの、大きいの、という会話は生まれてこないはずだった。だって「十年もたてば、ベッドもけっこう大きくなるものなのねえ」なんてこともない。それなのに、店のひとに、セミダブル、ダブル、クイーンとか言われて、はっとして、なんだったっけ、とかになって、それでもふたりして、こんぐらい、とか、いやもっとあったとか、両手をいっぱいに広げて往生際のわるいところをひとしきり見せて、けっきょく退散したのである。
「さすがにカタに嵌まらないわけにもいかないか、ベッドカバーは」
〇 カルヴァドス(グラスシリーズ「BAR」)
猫の恋
大学のころ、昼休みになると校舎の屋上でよく缶ビールを飲んだ。揚げ句に午後の授業もほおったまんま、ただ、柵にもたれてぼーっとしていた。Kといつもいっしょだった。Kのヒマつぶしにつきあい、あるいは私がつきあってもらうこともあった。
Kは女ともだちだった。「女ともだち」とは、考えてみればどこかへんな言葉のようだけれど、女なのか、それともともだちなのか、判然としないところが綾なのだった。今思えば、あれはともだちではなく同僚のよしみといったようなものだった。風邪をひいたらうつさないように気を使うのがともだち。だとしたら、やっぱりともだちではなかったのだ。相手が風邪をひいていてもヒマつぶしのためなら誘い出し、自分が風邪をひいていても、誘われればのこのこ出ていったからだった。
たわいのない話のなかにあって、おおかたは、私がKの未来像を聞く役回りが多かった。Kはよく、絵を描いて暮らせれば御の字だと言っていた。「うまい、へた、じゃないよね。そうだよね」缶を掴むKの爪先には、たまに油絵の具がたまっていた。黒ずんでいるときもあれば、赤みを帯びているときもあった。気兼ねがない証しみたいで、きらいじゃなかった。
ぐびぐび飲んでは缶を潰した。くしゃくしゃの音が空に跳ねかえって学校中に響きわたった。わけもなく気分がよかった。陽を浴びて、浴びるほど飲んで、ふたりで陽の落ちるのを見入ったこともあった。それからまた飲みにいくのだった。Kは、どこであろうとまったく酔わなかった。酔う、という体を見ることがなかった。「なにもない関係」という彼女の言葉が、私とKの間に、いつも並んで座っていた。ふたりの話を、別段遮るわけでもなく、ただふたりの間にじっとしていたのだった。そういう間柄を、とくにKは愉しんでいたふうでもあった。どうやらそれが、彼女にとって美大生としてのやりたいことのひとつであったのかもしれなかった。私は、「男ともだち」だったのだ。
ふたりのやることといえば、毎日のように、どこかで酒を飲んで、そうでないときは、映画を見にいくことだった。酒は、ふたりで物語を作り、映画は、作られた話をだまって見る、ただそれだけだった。酒はがぶ飲み、映画は手当たり次第、欧米も旧ソ連も、中国も日本も、西も東もいっしょくたにして、からだのなかに取り込んでいったのだった。水をたっぷりと吸い込んだスポンジのように、搾る場所がはたしてどこにあるのか、そのころはまったく見当もつかなかった。
三年の春になって、Kはぱったり大学に来なくなった。間もなくして、退学したことを噂で聞いた。Kは何も言わずに私の前から姿を消してしまったのだった。屋上に上がっても、飲み屋に行っても、映画館に行っても、私の横ではしばらく「何もない関係」という声が聞こえていた。それからだんだんその声も聞こえなくなって、私はひとりになっていた。屋上に上がることもなくなった。酒は強いのをちびちび飲むのがあたりまえになっていった。映画もひとりで梯子して、どうにか大学にも通い、かろうじて卒業もした。私は重たいスポンジのまんま、「社会人」(これもまたへんな言葉である。それまでは、社会でなく、これからが、社会なのか、といったふうに)になった。
それからさらに三年がたった。ある日、Kとばったり会った。とあるスーパーマーケットだった。Kはちいさな女の子を連れて、リンゴを吟味していた。あのころの短かった髪はロングに切り揃えられていて、爪はきらきらしていた。絵の匂いのしない、けれどもそれは紛れもなくKだった。
「こんなところで会うなんてね」と、Kは言った。
ちりぢりになったはずが、ひょんなところで、とはよくある話なのだけれど、よくある話だから、私に起こっても何ら不思議ではないことだった。
〇 すき焼き鍋
すきやき
ある夕どきに、行きつけの喫茶店にいると、場違いに騒がしい一席があって、どうやら、だれかのスマートフォンを中心に、検索でもしているのか、あるいは写真か動画でも見ているのか、いっとき静かになったと思えば、とつぜんどっと笑いが起きたりで、その不連続な波に翻弄されながら、私はといえば、ふと、「中心」ということばの綾にひっかかってしまっていたのだった。私が学生のころ、仲間が集えば、さてその中心には何があったのだろうか、とか、あるいはもっとむかし、家族の中心にはいったい何が見えていたのだろうか、とか。ぼんやり霧の向こうに目を凝らして手を伸ばしかけるうち、不意打ちのようにさらに甲高い笑いが涌き起こって、瞬く間、まっしろく、なにも見えなくなってしまったのである。わかることといえば、あのころスマートフォンなんてなかったし、と溜息まじりに突いて出てきただけだった。
ロラン・バルトの、日本を訪れたときの著作にこんな文章がある。たしかに街に中心はあるけれども、たとえば西欧でいう大聖堂や教会のような、ひとびとが集まっていく「特別な場所」とはちがって、日本のそれはとりわけ移動するための「駅」にあり、ひとびとの行き来する地点においてそれを「中心」と呼ぶにはあまりに移ろいやすく、「精神的には空虚」である。あるいは、ここ東京にも中心はあるものの、もはや傍らから「見えないものを目に見えるようにしたかたち」であって、やっぱり空虚なのである、と。たとえば、料理にも中心がない、という。日本人にとって食べることは、フランス料理のように食事の出される順序に縛られることもなく、「いわば思いつきのままに」、箸で「この色を選びとったりあの色を選びとったりする」。さらに、すき焼きを例に挙げてこうつづけている。「すきやきは、作るのにも、食べるのにも、そしていわゆる「語り合う」のにも、果てしなく長い時間のかかる料理であるが、(略)煮えるはしから食べられてなくなってしまうので、それゆえ繰り返されるという性質を持っているからである。すきやきには、始まりをしめすものしかない(略)。ひとたび「始まる」と、もはや時間も場所も、はっきりとしなくなってしまう。中心のないものとなってしまう。」(ロラン・バルト著作集7「記号の国」石川美子訳 みすず書房、より抜粋)
話題の中心、ということばがあるけれど、かいま見るかぎり、かれらは、素材をただ回し見て、「話」の中心がないのかもしれぬ。つねづね「始まり」だけのようである。ひょっとすると、煮えていてもそのまま放置するのかもしれない。
「めし、どうする?」
「銀座にでも行く?」
かれらは終始声高らかに店をあとにする、それから知らぬうち、あの「円い中心」を迂回するのだろう。
テーブルの中心で、灰皿が燻っている。
〇 丸高盆
お月さま
満月がより大きく見えることを「スーパームーン」と呼ぶらしい。日本語ではなんというか。「名月」に括っていいのだろう。九月にまた見えるらしい。月が地球にぐんと近づいてくる。もとより名月なら仲秋になる。
ときたま、スーパーじゃないのに大きく見えることがあって、あれはどのひとにも大きく見えているのか、と思ったりすることがある。色もそうだ。赤く見えたりすると、みんな赤く見えているのか、気になる。そばにひとがいれば、同じに見えているか、たしかめてみる。「ほんとだ」と明るい声で返されると、なんだかうれしくなる。照らされて、満たされる。
満月はふいに向こうからやってくるのがいい。だいたいそんなときは心がまあるいときである。
この丸高盆は
栃の木、一枚板でこしらえた高台付きの盆である。栃は軽量であり、変形を嫌うことから、家具や建材、楽器などにも使用される質実な材である。こと年輪の織りなす板目の美しさには定評がある。
この盆は、木のかたまりをろくろで回しながら、その木に刃物を当ててまあるく削りだす「挽物」と呼ばれる技巧から生まれる。仕上げは磨きのみ。表面にはあえて塗り加工を施さず、無垢の光沢そのままにしてある。使っては拭う、拭っては使う、その繰り返しで木肌にはいっそうの色つやが与えられ、たとえ染みがついたとしても、それが年輪と交わりながら月日の深みとなって味わいを醸しだす。長持ちの尺度として、手と目でふれながら愛でる。かけがえのない道具になってゆく。
膳とはいわないまでも、「丸高」と謳うとおり、たとえば畳の上にじかに置いて、盆そのままを座卓のように使ってみたい。
商品名 丸高盆
素材 栃
製造 但田木地工房(富山県砺波市)
制作 東屋
寸法 径283mm × 高36mm
価格 22,000円
〇 印判豆皿
手塩
「手塩にかける、というが、その手塩とは手のひらにのせた塩のことらしい。その塩にちょこっと食べ物をつけては頬ばるのだ。ずっとむかしの小粋な仕種である。よって小皿豆皿の類いは手塩皿と呼ばれ、いわば手のひらの代用である」
「へえー」と、向かいに座る男が声を上げる。
それから私は、
「おにぎり、だな」と、思い出したふうに言う。
「おにぎり? また話しが飛んだぜ」
「手許の塩にまぶされて、私は家内が握るみたいにカドのとれた人間になったらしい」
「うん、たしかにおまえはむかしよりか、丸くなった」
男は見た目も大きくうなずくなり、のこりの蕎麦を啜る。私はいち早く食べてしまった。
「年のせいもあるが、家内の手腕によるところも大きい。手塩にかけられた結果、こうやってのほほんとしていられる」
「けっきょくうまい具合に転がされてんだな」口をもぐもぐ動かしながら、男は空いたほうの手のひらをなにやら転がすように小さく動かしてみせる。
「いや、そうではない」
「じゃあ弱味でも握られてんのか」
男はこんど箸まで置いて、「こんなふうにぎゅっと」おにぎりを握る真似をしてみせるのである。
「ばか言え。うちはおまえのところとはちがって子どもがいないから、その分大事にされているだけだ」
すると男は、
「ごちそうさま」と、飲み込むより先に手を合わせてほくそ笑む。「ああうまかった」
この男とは、たまに会う。昼間から少し呑んだ。しめにそれぞれ天ざるを頼んだ。生姜を全部入れるかどうかで意見が分かれた。それから、薬味そのものに話がおよんで、その効用がなんやらと、話すうちにいつのまにか脱線していた。
「豆皿といやあ」男はかたわらの豆皿に目を向ける。「おれは金平糖だな」
こんぺいとう。久しぶりに耳にしたような気がする。
男は腕組みをして、空の豆皿を見つめながらつづける。
「受験のときにな。夜中になるとお袋のやつお茶をいれてくれるんだが、そこにかならず金平糖をつけてくれた。こいつにちょこちょこっとのせて、部屋まで持ってくる。舐めてりゃ元気になるから、ってさ。元気だからって大学に受かるわけでもないのにな」そう言うと、腕をほどいて豆皿をつまみ上げる。「こいつにきまって七つばかしだ。ラッキーセブンだと」
「そういえば、おまえのところ、そろそろ受験だよなあ」私は言う。
「そうだ。たいへんなんだぜ。というか、おれじゃないな、たいへんなのは」
男はゆっくり豆皿を置く。その手が気になったか、開いてみる。
「そうか。手のひらだったのかあ」男はじっと見ている。
私のほうからも、金平糖が見えた気がした。
この印判豆皿は
わさびに、しょうが、きざみねぎ、おおば、みょうが、それからごま、などなど、ひとつまみちょこっと、薬味は夏バテに効くという。食欲を促したり、食あたりを防いでくれたりと、枚挙に暇がないけれど、それらをのせる豆皿もまた、何枚あってもじゃまにならない。
この豆皿は、いろんな紋の摺紙を、天草陶石の生地に一枚ずつ貼り付けては染めていく、むかしながらの手仕事でこしらえた印判豆皿である。小さいけれど手間ひまかけたりっぱな用の美だ。そのつど摺りによって、ずれたり、うすかったり、またとない偶然が個性の表れとなって、ひとつとして同じものがない愛おしさがある。わたしたちの手のひらみたいなものかもしれない。
形と絵柄のちがいで、七つほどご用意した。どれも愛嬌があって、気の効く食の小道具。まずは手のひらにのせてみて、それからじっくり手をかけながらこまめに使っていただきたい。
〇 TIME&STYLEのビールグラス「YAE」
血とビール
小学校の高学年だった。母方の親戚の家から、夕飯の御呼ばれに与ったことがある。父はビールを片手に、母に小分けしてもらった刺身を食べていた。伯父は長々と小難しそうな話をその父に向かってしゃべっていた。私はオレンジジュースを少しずつ、飲んでいた。大皿に盛られたお寿司が、てかてかと光っていた。
真夏の暑いさなか、近くまでバスに揺られ、丘の上まで歩いて行ったのだった。めずらしく母が先頭に立って、折れ曲がった坂道をどんどんと登って行った。母だけが大きな包みを持っていた。風のない、一日だった。
私は父の隣に座っていた。母はその向こう側にいた。大きな畳敷きの客間だった。母と伯母は台所と客間を行ったり来たりしていた。絣の着物を着た伯父の母が、にこにこしながら「ひでくん、足を崩していいんだよ」と枯れそうな声で言った。
従兄弟の次男坊は、五つばかり年上だった。その次男坊に連れられて、二階にある彼の部屋に行った。ぴかぴかの廊下に、つるつるの階段。私は階段のある家にほれぼれした。何もかもが新しかった。建てたばっかりの家だった。従兄は部屋に入るなりレコードをかけた。ステレオセットを自慢したかったのだった。キッスの「地獄からの使者」が大音響で流れはじめた。壁にはそこら中、キッスのポスターが貼ってあった。白黒の顔に赤い舌。私は従兄を見ながらこう思った。このおにいさんは見ないうちに頭がおかしくなったのだと。大きくなることがこわくなった。ポスターの四隅がいたるところで金色にかがやいていた。目がちかちかした。画鋲までもが新しかったのだった。
一階に下りると、父も伯父もみんな赤ら顔だった。父の横に戻ると、ふと、母の手が向こうから伸びてきたのがわかった。だれにも見つからぬよう、父の足もとをぴしりと叩いたのだった。すると父の突き出た立て膝が、しずかに沈んで消えた。それから母は囁いた。
「やめてちょうだい、こんなところで」
「なにがじゃ」と父は下を向いて言い返した。けれども足は胡坐に直していた。私も慌てて正座した。母は何事もなかったように歓談に融け込んでいた。母もじゅうぶんに赤ら顔だった。
鮮明に覚えているものだ。酒宴の席で、気づけば私も立て膝を突いている。その上にジョッキを置き、人の話を聞いている。今だに母は、血は汚いものだ、と言うけれど、どうやら、血は水よりも、酒よりも濃い、ということなのだろう。私は突いた立て膝をしずかに沈め、それから胡坐に組み直す。いや、この際正座までもっていこう。ズボンから雫が浸みて膝小僧が濡れている。膝小僧を何度もさすり、すり寄るようにして宴席の雑談に融け込んでいくのだ。
あの日、家に帰ったら、母は不機嫌そうに父にこう言ったのだった。
「お里が知れるわ」
なぜだか母がちょっとだけきらいになった。
父は、といえばいつもより高く立て膝を突き、迎え酒をやっていた。それから
「家でも建てるか」
ぱたぱた団扇をあおぎながら、父は言った。
母は急にげらげら笑い出した。
そういう父が、私はちょっとだけ好きだった。
このビールグラスは
”TIME&STYLE”発のビールグラスである。本場イングランドのパイントグラスをヒントに、薄吹きのシンプルなカタチにこだわった。イングランドでは、1パイント=570ml ぴったりの大きさが定番だが、ここはニッポン、缶ビール1本=350ml まるまる注げるサイズにスケールダウンした。ふくらみの部分は、一、強度を増し、二、持ち易く、三、スタッキングができる。二重、三重の、工夫のシンボルである。家族団欒は勿論のこと、なんでもいい、ちょっとしたパーティにだって重宝する。
で、この際だから、「YAE(八重)」と名付けてみた。今夏の食卓に、どうぞ御見知り置きを。
商品名 TIME&STYLEのビールグラス「YAE」
素材 硝子
デザイン 猿山修
制作 TIME&STYLE
寸法 径80mm × 高133mm
容量 約480ml
価格 3,080円
〇 小鉢六角高台
スラッシュ
あれから三年になる。三年というのは「区切り」という言葉がともなって似合うらしい。
私のところから隣町にある大型スーパーの大きなネオン看板が見える。今年の仕事始めから、煌々とその灯りがふたたび赤く光りはじめた。
あの日にふっと消えた。それが三年目にぱっと点いた。何か問いかけのようだと思った。答えがひらめいて点いたのではない。それはただの記号である。
昨日/今日/明日/私は/夜/ベランダにて/振りかえれば/食卓が/見える。
この小鉢六角高台は
伊賀小鉢のラインナップである。縁起のよい亀甲六角の高台、その上にちょこんと酢の物和え物香の物、「向付(むこうづけ)」として配すれば、膳の景色をますます色づけてくれるはずだ。
東青山が扱う「伊賀の器」シリーズは、精製していない自然の土を作り手がじかに捏ねて、「たたら」「ろくろ」「型うち」という手法を用いながらひとつひとつ丁寧にこしらえてある。既成の型で成形しているものとはちがい、荒々しい土のまんま、その素朴な風合いには定評のあるところだ(伊賀土に関しては本頁、「切立湯呑」を参考にしていただきたい)。さらに目を愉しませてくれるのが「釉薬」である。その絶妙な肌合いと艶は、この「伊賀の器」シリーズにおいて十種類もの肌展開をしており、今回の「小鉢六角高台」もまた、伊賀で採れる灰や長石を原料に「志野」「石灰」「黒飴」「呉須縁」「松灰」と銘打って五種類ほど揃えた。
まず「志野」は、かの桃山から伝わる温かみのある志野釉を藁灰で再現したものである。「石灰」は、焼成によって無色透明なガラス質になるため素地の土そのものの趣を見せてくれる。「黒飴」は、伊賀に古くから伝わる透明な漆黒を映し出す鉄釉のことである。「呉須縁」は鉄絵で、伊賀で採れる<龍石>なる天然の鉄絵具と<呉須>を使って絵付けをした。さいごに「松灰」、これは、登り窯の燃料となる赤松の灰だけを使って、その灰が融けてしまうまで高温を保つと、澄んだ緑色に発色し、生地も硬質に焼き締められる。
といった具合に粒揃いの個性が並ぶが、さて、色とりどりの肌をとりそろえ、御宅の食卓を彩ってみるのもいかがか。たまには小鉢で一品足してみるのもいい。
商品名 小鉢六角高台(「伊賀の器」シリーズ)
素材 伊賀土(石灰釉/黒飴釉等)
製造 耕房窯(三重県伊賀市)
デザイン 渡邊かをる
制作 東屋
寸法 径99mm × 高70mm
価格 志野/石灰/黒飴 3,080円
呉須縁/松灰 3,630円
〇 カップアンドソーサー
カップアンドソーサー
カップとソーサーの間には「安堵」がある。私のワープロがそう変換してきた。「アンド」なんてはじめて打ったかもしれぬ。不意に「安堵」が私の前に表れたのだった。頻繁に用いるコトバなのか、そう考えれば、常日頃の求めすぎる性格が表沙汰にされたみたいで、なんだか気恥ずかしくなったのだった。
ときにカップは持ち上げられる。よってカップはソーサーから距離を置くことになる。たまにソーサーを置き去りにする。あわよくば遠い旅に出たっきり戻らないことだってある。それでもカップは、ふとした弾みに、ソーサーの手のひらへと帰っていく。
「ふしぎだ。」
ソーサーは女性名詞でカップは男性名詞かな、そう思ったりして、私はカップをソーサーに戻すのだった。「アンド」とは、おしなべて「安堵」な関係である。あながち間違いでもあるまい。私は、誰かの手のひらでまんまと転がされている身上を、ぽかーんとソーサーの上に浮かべていた。
カップアンドソーサー、アーンド私。何者にも咎められない三角関係を、お仕事そっちのけでふわふわと愉しむ昼下がりの私であった。
〇 銅器/茶筒
経年
私はいったい何を見てきたのか。この目でじっと見てきたもののことである。そんな問いかけが頭の中で駈けまわっていた。まっ先に思い当たるのは、親のすがたにちがいなかった。ずっと背中だけを見てきたのだった。今は、振りかえって探すしかなくなった。
お茶を飲み干したあとも、湯呑みを持ったまま気づけば底のほうをじっと見ていた。あるひとが、海を見ていると時間がたつのも忘れてしまうのは「あれは跳ねかえって自分を見ているからだ」と言ったのを思い出した。「じっと」時間をかけ、「見ている」が「見ようとしている」に、深度が変化するのだ。何を見るにせよ、私はそこに「私」という何んだか釈然としないものを見ようとしている。裏をかえせば、釈然としないからますます見ることになって、そこにえんえんと時間が注がれる。私は、溢れかえったそれにはっとして、湯呑みを置いたのだった。時の流れは輪郭もなく無情である。
「絵でも見に行く?」
細君の、誕生日が近い話になって、私は目の前のそのひとを見ている。出会ってからかれこれ三十年たつのね、と言われたとき、まじまじ二人は顔を見合わせるのだった。
海の前に立ってみたくなる。絵の前に立ってみたくなる。鏡の前に立ってみたくなる。あなたの前に立ってみたくなる。
いつのまにか今年が始まっている。「私とは、君だ」なんてランボーめいた言葉を、私もいつか思ったりするんだろうか。「ぢっと手を見る」私である。
〇 おひつ
飯の寄りどころ
妻が台所で炊きたての米をおひつに移しかえている。米は湯気を上げて、踠きながらも愉しげに妻の操るしゃもじから転げ落ちる。妻はその上から、まるで米の歓声を塞ぐみたいに軽ーく布巾を被せて、ぱたんと蓋を閉める。それから、傍ら牛蒡のきんぴらを小鉢に盛りつけはじめる。私はテレビを消して食卓につく、
「じゃ、いただきましょ」と妻の合図にしたがう。
私たちの夕餉は、いつも通りに手を合わせてはじまる。
米はこんど、おひつから飯茶碗によそわれる。そのころ米は、汗がひいたみたいにやけに落ち着き払って艶っぽい。噛めば歯ごたえがいい、香りもたつ。もしも米に運動があるとすれば、どうやらクライマックスは釜からおひつへと納まるところのようである。
今時分、おおかたのふるまいでは、おひつの動作はなくてよい。けれども、なくてもよい動作こそが米の潜在能力を余さず引き出しているらしい。寄り道のようで、それが本筋であることのほうが私たちの生活にはたくさんあったはずだ。私たちはそれを、「加味」を超越した、「醍醐味」、と言ってきたのではなかろうか。
明くる日の朝、おひつの冷や飯は、ほくほくの焼き鮭と味噌汁に塩梅がよい。少々行儀がわるいが、二膳目は味噌汁に投入してさくさく搔き込んで、合掌した。
このおひつは
およそ樹齢100年、木曽の地に育った椹(さわら)という材の、「柾目」を使って拵えている。水気をよく吸い、そのくせ耐水性に秀でたこの材ならでは、炊きたての米を適度な水分に保ってくれて、米に歯ごたえを与え、旨みと甘み、ふくよかな香りを引き出してくれる。
「いちど、おひつにうつしかえる」
昔ながらの「手心」を、ぜひ食卓に。
商品名 おひつ
素材 木曽椹(きそさわら)、銅
製造 山一(長野県木曽郡)
制作 東屋
寸法 二合 径180mm × 高125mm
三合 径205mm × 高140mm
五合 径235mm × 高160mm
価格 二合 14,300円
三合 17,930円
五合 21,340円
※ 側板に溝を彫り銅タガを締める仕様に変更しました。
〇 ジューサー
〇 切立湯呑
かたづけをする、ということ
ずいぶんむかし、ある女のひとに湯呑みをあげたことがある。たしか、コーヒーよりも、紅茶よりも、あったかい緑茶が好きだ、と聞いたことがあって、湯呑みをあげたのだった。あげるきっかけはどうだったか、誕生日だったかもしれない、いいものをみつけたからかもしれない、なによりなにかをあげたいと思ったことだけはたしかだった。小振りで、筒の形がよかった、女のひとの手にもおさまりやすそうだ、自分も同じものを買ってみる、そうやってひとつ、あげてみた。しばらくたって、ふたつの湯呑みが揃うことになった。そのひとといっしょに暮らしはじめたからだった。
ある日、彼女はその片方をこわしてしまう。洗っていると手を滑らせたのだ。こわれたのは彼女のほうだった。貫入の入り具合が好きだった。そこに合わせて割れていた。「直してね」と彼女は言った。捨てることを惜しまないひとがそう言ったから、意外だったように思う。私は「そうだね」と答えたっきり、またしばらくたった。
棚の上の段ボール箱のなかに、見覚えのあるハンカチに巻かれたまま、それはあった。ひろげると、思ったよりもばらばらになっていて、手が止まってしまった。捨てようか、とも思ってもみる。けれど、手が向かない。どうやら春は、そういったものまで蠢くらしい。それでも桜が咲くころに、引っ越しをしたり、かたづけをするのだけれど、ものはただ移動を繰り返すばかりで、上っ面だけが模様をかえる。ものごとそうかんたんにかたづけることなんてできない、私はそういうひとである、と、そこだけすんなり「そういうひと」でかたづけてしまう。ハンカチの埃をはらって、包んでまたおさめた。多分前にも同じことをやったかもしれない。
あんなに、ばらばらになってたんだなあ。花びらの散る近所の桜並木を散歩しながら、その女のひとのことを思い出してみるのだけれど、捨てることを惜しまないひとだったなあ、と、行き着けば、なんだか可笑しくなるのだった。
この湯呑みは
三重県の伊賀土でこしらえた湯呑みである。伊賀は、太古の昔琵琶湖の湖底にあったため、今はプランクトンや朽ちた植物など多様な有機物を含んだ土壌のうえにある。そのことから、高温焼成にも耐えうる頑丈な陶器づくりに適した良土に恵まれている。この湯呑みは、「土と釉は同じ山のものを使え」という先人の教えにならい、当地の職人が、当地の土を轆轤でひき、当地の山の木を燃やした灰や岩山が風化してできる長石を原料とする釉を駆使、いわば伊賀焼の継承からさまざまな表情を展開しつづける「土もの」の極みである。
熱くなりすぎず、冷めにくい。土のあたたかみがしっくりと掌になじむ。
この湯呑みで、ぜひに一服。
商品名 切立湯呑(「伊賀の器」シリーズ)
素材 伊賀土(石灰釉/黒飴釉)
製造 耕房窯(三重県伊賀市)
デザイン 渡邊かをる
制作 東屋
寸法 大 径81mm × 高91mm
小 径70mm × 高76mm
価格 大 3,960円
小 3,520円
〇 醤油差し
だらだらしない。
こゝろがけが、きもちいい。
ごらんのとおり、わたくし「醤油差し」と申します。と、名乗ればきっと「あっ、そうそう、そう言われればたしかに」とおっしゃってくれるはず。ならば多くは語らずとも、といきたいところですが、わたくし「新顔」にはちがいありませんので、ここはあらためまして、ちょこっ、とだけ、ごあいさつを。どうも、はじめまして。
なーんて、お辞儀でもすれば、やっぱりこの口もとに目がいきます?はずかしながら、たしかにおちょぼな注ぎ口、ですよね。たとえばほら、よく言うじゃないですか。ほんのすこーし傾けただけなのに、どぼっと出ちゃったとか。だらだら垂れたりして、しまりがわるいとか。「醤油差し」の分際でストレス溜めてどうする、ですよね。なにも、聞き捨てならないコトバに口をとんがらせて下向いちゃったわけじゃないんです。口はつつしみ、つつましく、下向きのこのカタチこそが、ひたむきさの表れだっただけのこと。だってわたくし、「醤油入れ」にあらず、あくまで「醤油差し」にございます。ちょこっ、とお辞儀がてら、おしょうゆを差すことがわたくしの役目。必要な分だけ差して戻せば、おしょうゆはひょいっ、とひっこんでくれて、口のまわりを汚しません。まして、いらぬ面倒などかけさせない。だらしのない格好はお見せしたくありませんので。「醤油差し」に大事なのは、こゝろがけひとつ。だらだらしない、切れがいい。これぞ「醤油差し」の誇りにございます。
ところでわたくし、けっこう小柄なほうでして、いうなれば控え目。「食卓に、必要な分だけ」を信条にしております。「おしょうゆ取ってー」と、声がかかってはじめてお目にかかるていど。べつにいいんですよ、フルネームで呼んでいただかなくても。中身あってのわたくし、図体ばかりが大きいと、中のおしょうゆを無駄に酸化させてしまいかねない。それじゃー、身も蓋もあったもんじゃないでしょ。このくらいがどうやらちょうどいいようです。ときには、あっちにこっちに、移動もします。なおさら、手わたしやすく持ちやすく。ちょこっ、と食卓の上にでも控えさせていただければ、この上ないシアワセにございます。
とはいえ、「ちょこっ、と」の分際にだって、「ずーっ、と」みなさんといっしょにいたい気持ちはあふれんばかりにございます。なにも、べたべたするつもりはもーとーございませんが、ただ、いつの日か、「定番」と呼んでいただければそのとき、多くは語らずとも、つかずはなれず、まっ、わたくしのこゝろがけしだいですか、ね。
〇 お盆
何を載せて、何処に運ぶか、ということ
日常の中にあって、ふと目に附いては、はっとすること、といえば私にとってなによりも本棚に列んだ背文字、だろう。目に附く、というか、本の声が不意に耳に届いて立ち止まってしまうのである。たとえば、「絵とは何か」「ふたたび絵とは何か」「みたび絵とは何か」と、過去に読んだっきりしまわれていた棚の隅からこうも立てつづけに投げかけられては、なにも絵に限らず、はたと自分の今していること自体に「何?何?それはどういうこと?」と疑いを持ちかけられ、ひいては私がそこにいる理由までも問われたか、のように私のほうがぺらぺら繰られている気分である。背文字というからには、彼らは私に背を向けている。けれど、彼らはお隣同士、あるいはご近所同士で、常にひそひそ話しをしているのである。それをあるとき私が気附いてしまうだけなのだけれど。
「視るとは何か」「見るまえに跳べ」「春は馬車に乗って」「回転木馬はとまらない」「ダンス・ダンス・ダンス(上)」「ダンス・ダンス・ダンス(下)」エトセトラ、エトセトラ。私はいてもたってもいられなくなり、なかでも声高な者に手を伸ばし、肩を叩くようにしてこちらを向かせ、いつのまにか腰を下ろしてその者の腹を探るに至る。するとたまに、日常の壁に小さな穴が開くのが見えて、そこからほんのすこしだけれど外が見えるときだってある。
あたりまえにあることが、折に触れて、あたりまえではないことになるのが日々の暮らしである。特別なことをしようとしていなくても、あるとき「日常」という名の棚にしまわれたものや、ことを、ふと掬い上げて掌に載せてみると、気附けばそこには「光り」が載っていることが多い。であるなら、何処にそれを運ぶかはいたって明瞭である。
日々は、その「光り」をもってしても「暮れる」。水を掬って運んでも指の間からこぼれゆくようである。けれど、その「光り」をもって「暮らす」のだ、とすれば、背を向けてばかりもいられないな、と思う。「光り」が届くより先に、「光り」は届けるものでありたい。
この盆は
盆は、掌の延長である。掌と同じように、盆で「運ぶ」のもまた、「大事」の表れである。
この盆は、「へら絞り」でこしらえた。「へら絞り」とは、こしらえたいものの型(かた)を動力で回転させながら、「へら」と呼ばれる道具で素材(ここでは真鍮である)をその型に押しつけて変形、成形させてゆく加工のことである。素材のやわらかさ、あるいは固さを見極めながら、微妙な力の入れ具合でカタチを起こすが、その研ぎすまされた感覚を体得した職人だけが「逸品」に「絞る」ことができる。のちに銀メッキが施され、仕上げは「ヘアライン」である。ひとつひとつ、目の細かいやすりで磨き上げ、表情を曇らせることで鏡面仕上げよりもやや酸化を遅らせる手はずのほうを選んだ。理由はひとつ。たとえば掌は、ひとやものに接するごとに、顔のように表情を浮かべ、あるいは皺を刻むが、この盆もまた、使い込めば銀は燻され飴色にかわり、ますます味のある表情をこしらえてくれるのである。
作り手から使い手に、その手はさらにつぎの手へ。先がたのしみな「顔の見える」盆である。
商品名 お盆
素材 真鍮、銀めっき
製造 坂見工芸(東京都荒川区)
デザイン 猿山修
制作 東屋
寸法 径290mm × 高20mm
価格 25,960円
※ 写真は、左から右へ「経年変化」のようすです。
〇 トスカーナのレース
明かりを灯す、ということ
お店に入って、あ、いいな、と、ものを指して思うのは、たとえばそれを家に持ち帰るところからはじまって、思い描いたところに置いてみる、あるいは使っている「わたし」のことを想像してみることにより、じつは「わたし」の内側が、その瞬間、ぱっ、と明るくなっていることに気がつくことである。気に入る、ということは、たしかにそのものがほのかに明かりを灯す光源のようなものになっていて、「わたし」を照らしはじめ、訴えかけてくるものだけれど、ほんとうにそのものを持ち帰った場合には、そのものがじっさい家のなかを照らすのではなく、どうやら「わたし」のなかが照らされて、からだはシェードのように「わたし」自身が光りとなって家を明るく照らしているのだった。なにも買い物や、ものにかぎったことではなく、目には見えないもの、たとえばコトバだってそうだ。「こころから」おもうということ、「こころから」言うということ、などなど、これこそが、ひとがひとを照らしだす明かりであり、こころが光源なのである。
妻はときどき、テーブルにまずはコースターを敷いて、それから飲みものを置きにくることがある。さほど水回りを気にしなくていいことから買ったテーブルなので、じかに置いていい。だからそれは、たまーにおこるハプニングのようなものだ。そのテーブルが瞬く間、そこにスポットライトが当たったかのように浮かびあがってくる。つぎにそれがコップの水であっても、その日にかぎっては、世界でいちばんの水であるかのように、きらきらしはじめる。なにより、妻のその振る舞いに光りは宿っている。ほかに照らし出したい何かが妻のうちにあることは明白ではあるけれども、たとえば何かいいことでもあったのか、それとも聞いてほしい話でもあるのか、それより、ただの気まぐれなのかもしれない、そんなことぐらいしか思いつかない私は、ふと気がつけば、しらずしらずに照らされており、魔法にでもかかったみたいに私のなかから晴れ間が広がっていくのだった。
今に思えば、私はたしかにそういった場合、どこかきげんがわるかったり、こころここにあらずだったりで、つまり、彼女にしてやられている、というか……、こころから、感謝している。
〇 木箸
味の外の味、ということ
古いことばに「味の外の味」というのがある、とどこかで読んだことがある。盛りつけられた料理の味わいは、その外側にあるふんいきや、うつわの表情、うつくしさをも「味わう」ことではじめて料理を「味わう」ものである、ということらしい。けれども、たんにすてきなうつわをそろえ、ふんいきづくりにいそしむ、ということではないはずだ。わたしたちには「一家団欒」がある。それだけで「味の外の味」はじゅうぶん事足りる。家族で囲む、家族でつまむ、家族ひとりひとりがそのささやかな幸せを噛みしめることを願って、食卓はゆたかな景色を生んでくれる。
この木箸は
たとえば二本で一対の箸のように、誰かがいてくれるから、団欒、つまりはいつも満面、まあるくなれる。
さてこの箸は、輪島の塗りものの芯になる木地を作りつづけてきた「木のスペシャリスト」四十沢(あいざわ)さんに拵えてもらった。木地そのまま、木肌そのまま、いわゆる「スッピン」の木箸だ。そのかたちは四角四面の面持ちよりも、ほんのすこし丸みを持たせてもらったことで、指先と口もとの当たりのここちよさが自慢である。いくつもの工程を繰り返しながら一本ずつ丹念に磨きこまれたなめらかなみかけと、うらはらに、食べものをすべらせずしっかりやさしくつかまえてくれる、正真正銘芯の通った木箸。
四十沢さんが引き出す木の素肌の力、いちど手に取って、味わってみてください。
商品名 木箸
素材 写真左から欅(けやき)、黒檀(こくたん)、
鉄刀木(たがやさん)
製造 四十沢木材工芸(石川県輪島市)
制作 東屋
寸法 長235mm × 幅7mm
価格 黒檀 2,970円
※ 欅、鉄刀木は廃番のため現在、取扱しておりません。
〇 煎茶 薩摩
すべからく
寄る辺のない日々を、
ラジオから「グリーンティファーム」という曲が流れていた。ジャズピアニストの上原ひろみさんが故郷の静岡を想ってこしらえたものを矢野顕子さんが歌っている。「ありがとう、ありがとう、ほんとうにありがとう」。一秒で足りるほどの「ありがとう」、そのひとことが、耳のありかを忘れてしまうほど、まるで贈りものをじかに手わたされたような感触を肌で感じて、私はふるえてしまったのだった。
夏が果てて、ベランダからゆきあいの空を眺めていると肌寒くなって、いつのまにか町かげにはぽつりぽつりと明かりが灯っていた。私もカーテンを閉めて部屋のデンキをつけてみる。町が揺れ、風に揺れ、ひとはなにかに、だれかにしがみつくも、なのに自然は許してくれないみたいだった。ならば自然は、だれに憤り何に怒っているのか、そんなことを顧みながら、そういったことを顧みている自分をふりかえってみると、いつ降りかかってきてもおかしくはないすぐ側に、だれもがいるのだ、と背筋を伸ばさないわけにはいかないのだった。それでも私たちは自然に寄り添い、どうにか折り合いをつけながら、誠実に過ごすしかない。
自然の恵みに感謝する、たとえば広告に謳うこともたびたびあるけれど、なにもできない私たちにかわってその自然とたたかいながら食べ物を与えてくれるひとたちの献身に手を合わせることを怠れば、口が曲がる、とは親からよく言われたことだった。私など想像もつかないような難題や、あるいは危険をも踏み越えて、自然という畏れに向き合う背中にしょっているのは誇りにほかならない。ひとは、ひとの力をはるかに超えた自然の一部である、ささやかだけれどそれでも生きたい。わきまえる、ということを、彼らに教わってきたはずである。山の仕事も、海の仕事も、山があり海があってのことだけれど、都市の仕事とは、その山や海の仕事に支えられているのだった。遠くにクレーンが立ち並び、常夜灯が点滅するまちづくりの途中をみつめていると、「元気でいられることの奇跡に身を正そう」そう省みるのである。
〇 マグカップ
あのときは、
そんなに好きじゃなかっただけだ
私は今までほとんどといっていいほどマグカップというものを使ったことがなかった。まず「マグ」というコトバにピンとこないのだった。いったい「マグ」とは何なのだろう。むかし、好きだった女の子のアパートにはじめて行ったとき、目の前に出されたのがその「マグ」だった。何が入っていたのか覚えてもいないのだけれど、奇妙なキャラクターが私に向かってファイティングポーズをしていたのだった。多分景品なのかもしれぬ、だけど容れ物として何でもありの、そのポリシーのなさにヒトもタガがユルんでしまって、ひいては家の持ちものにも、ましてやアナタにだってそれほどこだわってはいないのだ、と彼女から宣言されたみたいだった。緑色のカラダをしたそいつをじっと見つめながら、私は戦う気持ちにもなれないまま、「マグ」もその恋もみるみるうちに冷めていったのだった。それからどこに行っても「マグ」は、私の不意を突いて平然と現れるようになった。頻繁に見かけたのはアイラブNYのあの赤いハートマークである。ジ・アメリカ、何を入れてもオッケー、来るもの拒まずの、そのオープンな顔かたちが、いつしか横柄にも見えはじめた。手軽なふりをして、そのくせ私の片手では足りないシロモノ。たまに映画のなかの屈強なオトコがうがいなんかに使っていたりすると、ああ、つまりは合理主義なのだ、と「アメリカン」なるコトバまでが鼻につきはじめ、コーヒーをナミナミ入れるといかんせん胃がもたれてしまうわけで、なるほど、それで「アメリカン」かあ、とヘンに納得したりして……。けれども、私はアメリカンなものがきらいなわけではないのだった(たとえばアメリカンニューシネマとか、じつにいい)。そうなると「マグ」は単なる食わずぎらいなのかもしれないな、と思うに任せることもできぬまま、前を向いてまっすぐ生きてきたのだった。それこそ映画スターだったら、片手にそれを持ち、シーツにくるまった気怠いオンナの肢体を眺めながらタバコなんかくゆらせたりもできただろうし、あるときは一枚の毛布にふたり仲よくくるまったりして、手にはそれぞれ包み込むようにそれを持って、古びたアパートメントの屋上かなんかで朝日が昇るのをひたすら眺めることだってできたのだった(なぜみんなくるまるのだろう)。だけどそれを日本人がいくら真似をしたってサマにはならない。「マグ」、と呼ぶヒトがいれば、まるで因縁でもつけるような尖った目を向ける私こそ、いったい何なのだろう。寿司屋に行けばたまに「アガリ」というヒトがいたりして、「お茶くださーい」でいいじゃない、と思いながらも、手には魚偏の文字が踊るでっかい湯呑みを私もみーんな持っているわけで、なーんだ、耳をつければ「マグ」じゃん、とはならないのだった。
〇 SKRUF Bellman
容器
「水はグラスで味が変わるの」と、彼女は言った。その女の子はホテルにあったグラスに水を注ぐと、勇んで飲み干してみせた。「家に転がっているコップとはわけが違うんだから」と、もうひとつグラスに水を注いで、「はい」と私にわたすのだった。あれはどこのホテルだったか。部屋にある「グラス」なんて、どこも大差ないはずだった。
水を入れたコップに、「スキ」と書いた紙切れを裏っかえしに貼っておくと(つまり水に見せてあげるのだ)、見違えたようにおいしくなる。「キライ」と書けば、まずくなる。グラスの中の水を覗きながら、そんな話を思い出したのだった。ひとはほめられるとうれしい。笑みもこぼれるし、とにかく悪い気はしない。水七割でできた人間がそうなのだから、あながち否定は出来ないような気もした。
「だから植木鉢に水をやるときにだってとっておきのグラスを使うのよ」女の子は言った。「よろこんでいるのがわかるの。だからいーっぱいあげるの」
女の子はよっぽどその植物が大事なのだった。
「なにを育ててるの?」私は質問した。
教えてはくれなかった。
根が生えて、蔓を伸ばして、女の子に巻きつきはじめた。絡み合い、がんじがらめにして、そういった絵が浮かんだ。やがてそれらはオトコの足や手や指になっていくのだった。
「あげすぎると根が腐っちゃうよ」私は忠告した。
噂では、女の子は外国に行ってしまった。植木鉢もいっしょだったのだろうか。それとも本当に腐らせてしまったのかもしれない。
あのとき女の子は、もう一度水を汲むのだった。「乾燥してるでしょ。だからこうやって、お部屋にも水を撒いてあげるといいの」彼女は人差し指と中指を使ってグラスの中から水を上手にかき出すのだった。カーペットはシミのようにまだらになるが、あっという間に消えていった。私は持っていた水を一気に飲み干した。
〇 オリーブのまな板
大切にすることの先にあるもの
正直言ってさいしょは、「不様」だな、そう思った。年輪が歪んでフシもあるし、形もカバンみたいだ。
「それは、オリィーヴの木で作られています」女のひとが言った。すると「オリィーヴ」だけとつぜん私のなかにぽちゃん、と落ちてきたのだった。おりぃーゔおりぃーゔ、と、波紋が広がって、それから「不様」はあれよあれよと「親密」という形容詞にとってかわるのだった。オリィーヴ。女のひとのまねをして言ってみたくなった。
「オリィーヴかあ。へえ」
「不格好ですが、ものはいいんです」
見入ってしまったのは女のひとの「オリィーヴ。」に反応したにすぎない。なのに「オリィーヴかあ。いいかもなあ」とまで口に出す始末だった。
イタリアのトスカーナで作られた、オリーブウッドのチョッピングボードのことである。たくさんの実を生み、その役目を全うしたのちいよいよ枯れてしまった木を使ってこしらえた。だけど、板材を切り出せるぐらいの太さともなれば、けっこうでかいのではないか。
「オリィーヴってそんなに大きくなるの?」
「はい、百年はかるく」
「へえ」
考えてみれば、イタリアでどれだけオリーブが大切なものか、想像に難くない。いたりあといえばおりぃーゔ、おりぃーゔといえばいたりあだ。木の一本一本が政府に登録され、つまり「国」が管理する。実をつけつづける間はたとえ所有者であっても勝手に伐採もできない。と、まあ、オリーブがイタリアでどれだけ重要なものか、女のひとが教えてくれたのだけど。私の中で「オリーブ」といえは、細長くスレンダーなイメージしかなかったのだった。
そういえばむかし、「重要文化財」に指定された古民家を取材して回ったことがある。たしかあれは、「重文」でありながら今も「住まい」としてちゃんと使われているところを見ていこう、そういった企画だった。そのうちの一軒、とあるワイン工場のそばに「藁葺きの家」があって、
「たとえ持ち主でも、無闇にタテツケひとつ直すこともできないのよね」
と、「絵になる」と踏んでいた企画の身勝手な方針とは裏腹の、第一声を聞く羽目になった。
「エアコンつけるにもお伺い立てなきゃいけないんだから」
がたがたっ、とすきま風の鳴る窓を、主は恨めしそうに振り返る。が、「しょーがないから、建てちゃったわよお。だってじぶんちなのに気を使うのもへんでしょ」と、主の視線を辿るとそこには新しい家が建っていた。
〇 花茶碗
〇 丸急須 横手
急須の力
母がお茶を入れるときの段取りはこうだ。茶筒の蓋に目測でとんとん、と茶葉を載せ、そのまま急須にざっ、と音を立てて放り込む。次に魔法瓶でじょーっ、とお湯を注いで、すかさず蓋をかちゃん、と閉める。食器棚からがちゃがちゃ、と湯呑みをふたつ取り出して、テーブルにかたん、と置くと、思いついたように急須を掴んで並んだ湯呑みの上を行ったり来たりさせて分け注ぐ。傾けた注ぎ口からお茶がしたたって、テーブルの上にはみるみるうちに水たまりができている。それでも母はお構いなし。ひとつ私のほうへ差し出すと「で、今日は学校どうだった」と切り出すのだ。聞いてなどいない。口が言っているだけだ。そばにある布巾で水たまりを拭きはじめる、急須のお尻を拭ってやる、自分は味わう間もなくさっさと仕事場にひっこっんでしまう。高校を卒業するまでは、おおかたそんな「お茶の時間」が繰り返された。母は洋裁をなりわいにしていたから、お茶を注ぐ手にはいつも腕時計みたいにゴムバンドの針山を巻いていた。私はそこに刺さった待ち針の数を数える。ちくちくちくちく、ちくちく、と。
ひとりで東京に出てきてからお茶は飲まなくなった。自分で入れるなんて考えもおよばなかった。どことも知れぬ茶葉と、どことも知れぬ急須の類いの、いつもとかわらぬあの「お茶」が好きだった。となりからは、裁ち鋏を滑らせながら布地をしゅーっ、と切る音や、ミシンをばたばた踏む音が聞こえた。置きざりの湯呑みに茶柱が立っているのをみつけて、じわっ、ときたこともあった。
あるときわが家の急須が変わっていることに気がついて、妻の人差し指が蓋のつまみを押さえているのを見ながら「おい、いつ買ったんだ」と聞いた。お茶がしずかに私の湯呑みに注がれていき「おい、いつ買ったんだ」とまた聞いた。お茶がしずかに妻の湯呑みに注がれていき、並んだ湯呑みの上を行ったり来たりさせるのを見ながら、私はあのころのことを思い出したのだ。妻はひとつ私のほうへ差し出すと「いつもよりおいしいよ」と言った。湯呑みを両手で包んだまま、私の顔をじっと見守っている。テーブルの上には水たまりひとつない。きれいなものだ。すると、ちくちくちくちく、ちくちく、と不意に胸が痛みはじめた。