東青山


〇 麻布十四番

2020. 4. 30  [日用品:掃除]
 

近江上布林与のシャトル織機で作った東屋の麻布キッチンクロス

 日の出


 太陽が昇ったとき、ポーリーンとわたしは台所にいた。かの女が皿を洗っていて、わたしがそれを拭いていた。わたしがフライパンを拭いていたとき、かの女はコーヒー茶碗を洗っていた。
「きょうは少しは気分がいいわ」とかの女はいった。
「よかった」とわたしはいった。
「ゆうべ、わたしはどんなふうに眠っていた?」
「とてもよく眠っていた」

 と、話はこの先もつづく。これはリチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)のなかの一節だ。どこか不穏で、けれど美しくて切なくて、まるでお伽話のような本。この「日の出」と題された一編もそうだけど、なんの変哲もない書きようが大好きだった。当たり前のことが、どこか当たり前ではないことのように見えてくのはいったいなぜなんだろう。むかーし女の子が貸してくれた。その女の子はベッドの端に座っていて、ふいに読みかけの本を膝に伏せてから「夢ばっかり見てないですこしは本でも読んだら」と言った。そのあと喫茶店に行って「いっぺん言ってみたかったのよね」と言った。「わたしの好きな絵描きさんの受け売り。びっくりした?」したさ。
 そういう日常が、あった。「日常」ということばがいまはもっとも美しい。


 この布巾は

 明治の時代から百十年余、四代にわたってリネンと麻を織りつづけてきた老舗「林与」。その歴史ある機元(おりもと)が丁寧にこしらえた麻布(あさぬの)です。まずは織りあがったまんま、つまり生機(きばた。織りあげて織機から外したあとの、まだ硬いままの布生地のこと)の状態で、紙に包んでございます。開封しましたら、さきにぬるめのお湯で洗っていただき、柔らかくしてから使いはじめてみてください。おっとー、申しおくれました。商品名は「麻布十四番」。番手をそのまま名前にしてみました。「番手」とは糸の太さを示す指数のようなもの。数字が小さくなるにしたがって糸は太くなっていきます。で、この十四番は太番手のほう。その糸で、密度を高くして織りあげていきます(ちなみにこの商品、織機の古参「シャトル機」を使用するそうで、一時間に一、二メートルのゆっくりとしたペースでやわらかく仕上げていくのだとか)。話を戻しますねえ。えーと、糸を高密度で織りあげる、でした、よって吸水性がよく乾きも速い、食器を拭くにはもってこいです、と言いたかったわけで。あるいはぱあっと広げて、洗ったお皿やお茶碗なんかをそのまま置いて、水切りにもよろしいかと。ほら、乾きが遅いと布地って臭くなったりするでしょ? でもこの「麻布十四番」はなにより清潔さがモットー。安心してお使いください。そうだ、番号だけの名前ってちょっと素っ気ないかもしれませんけれど、実のところ、もっとほかの使い方、見つけていただいても構わないかと。そんな気持ちも込めて、「十四番」。使い込むうちますます柔らくなって手になじみ、それがたとえば「キッチンクロス」であろうが「台拭き」であろうが、もっといえば「手拭い」にだっていいし。大判だから包容力も太鼓判。きっとながーいおつきあいになりそうですね。さて、ステッチの色ちがいによる4種類(赤、青、生成り、白)をご用意しました。さあなんなりとお申し付けください。あ、それと。布地にちょこんと小さな輪っかを付けてあります。手っ取り早くフックなんかにひっかかけて、乾かしたりしていただいてもよろしいかと。ちょっとしたアクセント、ということで。

 商品名  麻布十四番
 素材   亜麻
 製造   林与(滋賀県愛知郡)
 制作   東屋
 寸法   500mm × 700mm
      (一回目の洗いで、この寸法になります)
 価格   各色 2,860円
 ※ 発売記念キャンペーンにつき白のみ1,980円

  

麻布十四番 赤  
品切れ
麻布十四番 青  
品切れ
麻布十四番 生成り  
品切れ
麻布十四番 白  
品切れ
 

〇 ふきん

2014. 7. 30  [日用品:掃除]
 

蚊帳生地のふきん

 生活の基盤 其の二
 「拭く、ということ」


 とあるデザイン事務所の一番偉いひとは、訪れるたびにどこかしらなにかしらを拭き拭きしているひとだった。マンションの一室をそのまま事務所にしていたので、靴は脱いで入るのだけれど、たまにそのひとは玄関でも拭き拭きしていた。その事務所は絨緞の感触が当時のわが家にとても似ていた。なのでいったん足を踏み入れると、足の裏からじわじわと親近感のようなものが伝わってくるのだった。仕事をしにきたということをつい忘れそうになって、来客用のスリッパを履けばどうにか余所ゆきの緊張感を保って臨めるはずなのだけれど、そのひとに、拭き拭きしながら「いらっしゃーい」なんて待ち受けられると、のっけから調子が狂ってしまって、他愛ない緊張感などあっさり拭き拭きされてしまうのだった。
 アシスタントのひとに聞いたところによると、そのひとは来客のあるなしに関わらずいつもなにかを拭き拭きしているらしかった。「目を離したすきに拭き拭きしている」のである。私もなんどかおじゃまするうち、彼の拭き拭きを見ないことにはなにも始まらないような気がした。お茶をいただいて一息つけば(お茶もそのひとがいつも出してくれた)、さっと食器を片づけて(洗って拭き拭きしていることもあった)テーブルに戻るなり、いきおい拭き拭きする。早く打ち合わせを終わらせたいのだろうか、それとも単に打ち合わせが苦手なのか、さいしょはそんなふうにも思ってみたけれど、しばらく見ていると、そもそも彼の手は布巾を持っていることのほうが多いのだった。彼はあざやかに、机上をまっさらにする。私の差し出す試案の類いはその上で気持ちよさそうに横たわっている。そのまま眠ってもらっても困るのだけれど。
 習慣が、あるとき「好き」にかわるのは、いったいどのくらいの時間が必要なのだろう。そのひとは単なるきれい好きとはちがって、折り紙つきの拭き好きなのである。少数精鋭の、そうはいっても会社である。まわりを見わたせば彼らのテリトリーだってある。こざっぱりしたひともいれば、ごちゃごちゃしていたほうが落ち着くひともいて、あくまで共有の、ほんの一部分だけ(なんだかわからないオブジェや、ぎっしり詰まった本棚の手前など、一部分とはいえ挙げればきりがないのだけれど)、彼は拭き拭きしながら、生き生きしているのである。
 肝心なのは、布巾がそのひとにとっていわば大切な相棒であるということだった。拭き拭きしながら「たとえばね」なんて澄んだ目をして、何気ない思いつきもみがきがかかってアイデアに生まれ変わる瞬間をなんども見てきた。生活の中に仕事があることを、それとなくおしえられた気もする。彼の前に道はない。拭き拭きしながら彼の後ろに道はできるのだった。行ったり来たりする布巾が、彼の推進力だったのかもしれない。
 そんな彼に、私ももっと拭き拭きされたかった。しばらく会っていない。
「いつかふたりだけで、なにか作ってみたいよね」
 ばったり道ばたで会ったとき、そのひとが言ってくれた。なんだかぱっと明るくなった。曇ることなく今もその光景がよみがえってくる。叶ってはないけれど、そのことばを思い出すたびに、私は前を向くことができる。
 のちにそのひとは、あざやかに、さっと身を引いたと聞く。拭き拭きしながらにこにこしている顔が浮かんでくる。


 このふきんは

 奈良県の特産でもある蚊帳の生地。それを八枚、重ね縫いしてこしらえた。よって吸水性がよい、汚れを上手にぬぐう、乾きが早く、なにより長持ちなのがよい。
 使えば使うほど、スキルアップのごとく用途に暇がない。たとえば、おろしたては食材の水切りに。こしがやわらかくなれば食器拭きに。もっと馴染めば台拭きに。いよいよ窓拭き、さらには床拭きと、そうやってふきんはぞうきんへと修錬されてゆく。これはもう駄目か、なんてことはない、からからに乾かして靴みがきにどうぞ。言うなれば、何回も生きかわるふきん。どしどし使い倒していただこう。
 主原料は、綿とレーヨン。土に埋めれば土に還ってゆく、なんて聞き齧れば、どうやらいいことづくめである。一家に一枚、そんなこと言わずに何枚か、使い分けるのもまた真なり。

 商品名 ふきん(三枚入り)
 素材  綿、レーヨン
 製造  中川政七商店(奈良県奈良市)
 制作  東屋
 寸法  幅300mm × 長340mm
 価格  1,540円

ふきん  
品切れ
 

〇 束子

2014. 7. 25  [日用品:掃除]
 

国産の棕櫚で作られた束子

 汚れては洗われる


 ずいぶんむかし、郊外にあるアパートは、二、三棟の同じような形をした木造二階建がどこを見るでもなしに並んでいて、棟と棟の間には決まって持ち腐れの場所がぽかんと空いていた。ところによっては、縦列に車を並べてなんとかその場所に意味を持たせようとしていたし、だれのものともわからない自転車が建物の壁に頭を向けたまま、それでもじっと跨がられるのを待っていたのだった。
 私が東京に出てきて住みついたアパートもまた、なにものかもわからない人々が、等間隔を守りながら、どこを見るでもなしに並んでいた。そのアパートも例外ではなく、棟と棟に挟まった裏手は、やっぱりぽかんと空いていた。ベランダはなく、洗濯物が向き合うかたちで垂れ下がり、おざなりに雑草が生えたり枯れたりするぐらいで、ただ、他とちがうのは、飯盒炊爨を思い出させるような、キャンプ場さながらの洗い場が中央に設けてあることだった。青い塩化ビニールの海鼠板の屋根がかけてはあるが、ところどころ留め金は外れたまんま、穴が開き、雨よけも日よけも体をなしてはいなかった。それでも夏になると、私はよくそこでスニーカーを洗った。たまに頭も洗ったし、足も冷やしたし、風呂なしの身にとって、行水には恰好の場でもあった。むかしは人の出入りもそれなりにあったはずだが、だれとも会うことはなかった。もはやだれも見向きもしない、空白の場所だった。流しの裏表には、三つずつ蛇口はあったものの、バルブが嵌まっているのはひとつだけだった。その蛇口に、柄のついた束子がいつも引っ掛けてあった。いつも、というよりも、そもそも私しか知らないことなのかもしれなかった。柄には白いビニールテープが巻きつけてあって、マジックでタブチと書いてあった。消えかかっていたから、タグチかもしれなかった。私はなんとなくタグチのほうがしっくりきた。タグチはどこかへ引っ越して、このタグチだけが忘れられ捨てられたのだと思った。私は捨てられたタグチでスニーカーを洗った。束子も洗えば汚れはおちるのだった。
 コンバースは、ローカットでライトグレーの布地だった。それだけは月にいちど、必ず洗うようにしていた。東京に出てくる前、予備校で好きだった女の子が履いていた。東京に出てきて、それと同じものを買ったのだった。彼女は東京に出てこられなかった。彼女のコンバースは、いなかから一歩も出ることができなかったのだ。親が許してはくれなかった。彼女の細長い足には洗いざらしのコンバースがとても似合っていた。私が東京で洗っては履いた。彼女のことを忘れたくなかったのかもしれなかった。擦り切れるまで履いて、履きつぶすまで歩いた。それからいつのまにか消えてなくなってしまった。
 1982年の夏。私はいつものようにコンバースと一掴みのスパークを握って洗い場に行った。コンクリートが白く乾いていた。蛇口を捻ると茶色い水が出た。しばらく流すと透明に変わった。コンクリートが水を吸い込んで黒ずんでいった。空の青より、海鼠板の青が、私の夏だった。その昼間も、タグチでコンバースを洗い、泡立たないのは、私もおんなじだった。
「ねえ、あんた」
 コンバースにタグチをしつこく突っ込んでいると、女の声が聞こえた。屋根の端を見上げると、その向こうに女が二階の窓に腰掛けてこっちを見ていた。
「ねえあんた、それ」
 私はタグチを持ったまま、女の顔を見た。四十過ぎの細面のひとだった。
「それ」
 タグチのことだった。
「勝手にボロボロにされる身にもなってみなよ」
 女は首の汗を手のひらでぬぐった。額は手首でぬぐった。それから腰でふいた。キャミソールだった。鎖骨の汗が光っていた。これがタグチか。タグチは水商売だと思った。蛇口の水がいきおい音を立てて重吹きを上げていた。
「きぶんわるい」
 タグチは吐き捨てるようにそう言って、部屋の闇に消えた。
 私は水を含んだタグチを何度も振り下ろした。何か別なものがそこらじゅう飛び散ったような気がした。汗をかいていた。顔を洗った。蛇口を閉めた。タグチをそこに引っ掛けた。コンバースを掴んだ。きれいになっていない気がした。空白が塗りつぶされたかんじだった。
 敷地の外に出たかった。出て、振りかえったら、タグチがじっとこっちを見ていた。コンバースを見ていた。なぜかそんな気がした。タグチはもう、タグチではなくなってしまっていたのだ、そう思った。
「汚れたら洗えばいい」
 つい最近、だれかに言われて、そう簡単には片付かないこともあるんじゃないか、と言い返してみた。そのときふと、思い出したのである。



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〇 お手掃き

2013. 5. 16  [日用品:掃除]
 

江戸指物のお手掃き

 生活の基盤 其の一
 「はらう、ということ」


 埃をはらうということは、敬意をはらうことである。と言ったのはだれだったか。
 例えば、書き物をして、鉛筆の消しかすをささっ、とはらっているのは、やっと書きあがった安堵の吐息をおとしながら、その机の上で思考を重ねることができたことへのせめてもの敬意をはらうことである。あるいは、食事をしたあとの、パン屑をしゃしゃしゃっ、とはらうのもまた、楽しく過ごせた食卓への敬意をはらっていることになるのだろう。
 わたしたちの生活は、大なり小なり、自らが選んだ場所、いいや、使わせてもらっているその地に、なにかしらいろんなもの、ことがら、を堆積させたその上に立っていて、それがあたかも自分の背の伸びたふうに装っているのだけれども、あるときその山を降りねばならないときには、よけいなものはいっさい取り除いて立ち去るべきだし、それがその地への敬意をはらうということになる。だとすれば、振り返ってその目が見るものは、もはや目には見えない架空を見上げるようなものであって、ただ途方に暮れながらなんとこの身の小さきことかと知るよすがとなるようだ。
 さて、そこがまさしく、生活の基盤である。その盤上はことあるごと澄み切っていたほうがたいへん好ましい。またそれを、わたしたちは「大切」と言う。


 このお手掃きは、

 小さなほうきとちり取りのセットである。ほうきは、パキンと名のる植物繊維、別名メキシカンファイバーでできている。パキン製のブラシ類は、その腰の強さから優れたブラッシング効果があるとされ、このほうきもまた、潔い掃き心地である。ちり取りは、ちいさな塵も埃も取り損なうことのないよう、秋田杉の柾目で隙間なくさしあわせてこしらえた、江戸指物である。
 ちり取りの手許に開けたまあるい穴にほうきのひもを通せば、壁に引っ掛けることもできるので、手の届くところにぜひ、このコンビを待機させておいていただきたい。ますます重宝するはずである。

 商品名 お手掃き
 素材  ちり取り/杉、箒/パキン
 製造  ちり取り/井上木芸(東京都荒川区)
     箒/高田耕造商店(和歌山県海南市)
      /昇苑くみひも(京都府宇治市)
 制作  東屋
 寸法  ちり取り/幅127mm × 奥行114mm × 高33mm
     箒/幅90mm × 長125mm × 厚18mm
 価格  13,200円
 ※ 箒の紐が新たな仕様になりました。(写真と異なります)

お手掃き      
品切れ