
間の因果
ー習慣と思考が刻む間にー
手と道具を持ってして「盛ることと削ること」はなににつけつかずはなれずのいわば有縁の関係ではあるものの、その間がはからずもその手の止まってしまう時間にもなってしまうことがたびたびあって、そのあわいにこそなにかがあることはわかってはいそうなものなのだが、どちらかいっぽうに傾いているような心許ない意識が立ち上がっていることに気づけばそのなにかはたちまちのうちに消えている。そのようなとき、それを壊すひとがいる。見てられないのだ。小学校を卒業するときY先生のノオトに書いてくれた言葉は「自分の顔は自分で作れ」とあってこの歳になってからじわじわと胸に喰い込んでくるけれど顔はまだこれからも変わるものなのだろうか。顔ははたして壊せるものなのだろうか。この顔は通り過ぎてきた矛盾と和解の造作である、眉間のしわを指摘されるたびにそう反駁して煙に巻いてきた。
リルケが『ロダン』のなかでこう書いている「彼は自分の道具の鈍重なあゆみを軽蔑することをしなかった」ロダンはたとえば空想という翼を持ったとしても「それを飛び越す」容易さは選ばない、「自分の道具のあゆみに並んで歩いた」という。「多様性」に惑わされることよりも「永遠性」についてその美しさについてリルケ自身がロダンを通して目を見張るのだった。ときに切り出しナイフをつかって彫と塑を行き交いするジャコメッティ、「私が進歩を感じるのは、肉づけしているナイフを、どう握っているのか、もうわからなくなっているときである。まったく途方に暮れてしまって、でもなんとかつづけることができると愚かになったときそれこそが進歩の好機なのだ」と言った。
ただ、道具に伴走す。
いつのまにか、持たされているもの。なにも道具だけじゃない。習慣は思考にまさることもある。
このナイフは
肥後守。硬い鋼を間に挟み、柔らかい軟鉄でサンドイッチしてこしらえた刃を、真鍮の鞘に収めたポケットナイフである。チキリ(尾)と呼ばれる突起部を押すことで刃を開閉できるため、直に刃面を指で触ることも少なく、さびの原因になる湿気を最小限にしてくれる。刃は両刃になっているので利き手を問わず左右どちらでも自在だ。たとえば、鉛筆を削る、紐を切る、手紙の封を切る、荷物の開梱、アウトドア(釣り糸を切る、とか)、切れ味の良さで活躍必至。自分で研ぐもよし、万能と謳うにふさわしい。
どういうときに使うのかを知り、気をつけ気をつかって使う、道具との付き合い方がある。つねに初心者であることを忘れないでおきたい。
さて、大、特大、ご用意した。それぞれ用途に応じてお求めくださいませ。
商品名 肥後守
素材 刃/青紙割込(鋼、軟鉄)
鞘/真鍮
製造 永尾かね駒製作所
寸法 大 刃 厚3mm、長80mm
鞘 長100mm
全長 180mm
特大 刃 厚3mm、長100mm
鞘 長120mm
全長 220mm
価格 大 2,420円
特大 3,080円
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