
自在の鉤
小沼丹さんのエッセイに、建て増しした書斎の片隅に炉でも切ってみようか、という話があった。そのなかに「自在鉤」が出てくる。拵えかけの炉に、ちょうどよさそうな自在鉤を道行きの古道具屋で見つけたが、連れの友人に先を越されて買われてしまう。ところが、あとからその友人宅を訪れた際、件の自在鉤は別段使われている様子もなく、端のほうへと追いやられている。友人云く、ながめているだけでいい、のだそうだ。だが、小沼さんはどうしても欲しい。そこはそれ、言葉巧みに友人を説き解し、まんまと自分のものにしてしまうのだった。モノはあるべきところにあってこそ、何よりそれが自然の姿である、そんなようなくだりにおぼえがある。
向田邦子さんも、他人の万年筆を気に入れば、「ちょうだい」の一言で、するりとその人の懐に入るなり、ちゃっかり自分のお気に入りにしていたそうだ。川端康成さんの駆け引きにいたっては飄々としている。欲しいと思うモノは、まず借りる。そのまま自分の家に持ち帰って、あとは言うまでもない。
じわりじわりと自分の手許にまでたぐり寄せる、それともその場ですかさず懐に入れてしまう。どのみち相手の出方次第ということか。「自在鉤」ではないが、引っ掛ける寸法はいくらでもあるわけだ。
所有者であるはずの相手からすれば、どうやら当人らに共通する「言葉の魔術」に引っ掛かってしまうらしい。口車に乗せられて、さも元来から当人のモノであったかのような錯覚におちいるのだろうか。相手にとって当人が気のおけるニンゲンであれば、「いいよ」なんてつい言ってしまうのはなんとなくわかる。懐が深いのか、浅いのか、さてどっちだろう。当人の、モノを見る目がきらきらしているのをひとたびかいま見ると、その目に吸い込まれるようにして快諾のほうへと導かれてしまう。モノに対する得も知れぬ熱量に浮かされて、ほだされるのかもしれない。それは当人らの性分と品性、眼力、にかかっている。もっとも当人そのものに惚れてしまっていては、もはや諦めるしかほかない。所有していたそのこと自体をあたかも賞賛されたような気分に向かわされて、恍惚としてしまう。いわば眩暈に近い。いずれにしろ、そこにはモノの外にきちんとした気持ちの交換があってこそである。そもそもモノは積み重なった記憶である。たとえ新しいモノであっても、綿々と語り継がれるであろう運命を背負っていると予感するなら、それもまた記憶の装置である。そのモノを挟んで、ニンゲンとニンゲンは交感する。そこに互いの支障も遺恨も残されない。その「間」でモノは現前に光って見える。
さて、私は誰かから、まんまと自分のものにしたというモノが手許にあるか、と考えてもみたが、どうも思い当たるものも、見当たるものもない。「ちょうだい」なんて言った試しもない。「貸して」と言われれば、それが渋々であろうと貸してしまう性分だが、そのまま返ってこなかったものはおよそ見当がつく。思い出せば未練がましくなるが、これもまた性分である。どうやら私は先に述べた主たちの、向こう岸に立っているようである。となれば、私は作る側にはいないのではないかと、はっとするのだった。いやはや「自在鉤」から、なんとも思いもよらぬモノが引っかかってしまった。
ちなみに、小沼さんの炉は、さいしょはその前でひとり酒も飲んだし、たまに友人と挟んで酌み交わしもしたが、のちに炉は塞がったまましばらく、自在鉤はその頭上で宙ぶらりんであった、らしい。
