燭台
「記憶というには遠すぎて実感がない。遠いのではなく、奥にありすぎるのかもしれない」(保坂和志『カフカ式練習帳』より)幼年の遊びを思い出すくだりである。たしかに「記憶というのはそれを意識して引き出そうとするとこれが案外労力を使う」のだけれど、読んでいたらふと、蝋燭の火を持ってどこかに行こうとする暗闇の私の姿が見えてきた。ひらめきは電灯に喩えられるが記憶は蝋燭の灯火が似合いそうだ、なんてことも思った、はずである、だからまた読んでみたのだった。はたして前に読んだときいったい何を引き出そうとしたのか、そこまでのことでもなかったのかもしれない、立ち止まらず先に進んだのだろう、か。とある過去に火がつけばほのかにその周辺をも照らし出す。ならば歩き出してみようと思いは動くが、あるとき、引鉄が何んだったのか、もはや手には蝋燭の火だけ、一人取り残されたような、ということがよくある。
むかし、舞台をこしらえたとき。女の人が蝋燭の火をかざして男に近づいてみるのだけれど、その男は記憶だった。記憶のなかの男は彼女にもう何もしてくれない、してくれたことすら思い出させてもくれない、してくれなかったことは思い出すもなにももともとない、それでも女は男に近寄ろうとする、があまりに奥にありすぎるのだ。男は消えかかる、が消えはしない。火はいつか消える、がまたつける。自分で吹き消すこともある、がまたつける。引き出すのは男の言葉ではなかった。自分の記憶である。狂うと記憶は妄想に引火する。ということを思い出した。その周辺もぼんやり明るくなりはじめる。吹き消した。
夢は、なかなか思い出せない夢がある。目を閉じなおし、火を灯し、かざしてみても追いつかない。追いつかない、と書くのは、逃げるからか。好きだった女の人が出ていた、それは知っている。だからなおさら追いつこうとする、のは何んのためだろう。逃げるのは夢か、彼女か。ただ懐かしいからか。ぼんやりとは見える、のだけれど手が届かない、それがほんとうに彼女なのか、もわからなくなる。なのに彼女のことを思い出している。なにか大事なことを言ったような、だから彼女の声が先に思い出され、それは現実のあのときの返答のような気がするから、そうするうちにあのころのことをもっと思い出そうとしている。夢よりさらに奥である。
小さいころ、ウィーン少年合唱団のリサイタルに行った。二列目の右から三番目の男の子の顔は今でも鮮明に思い出すことができる。彼は私よりも三つ年上で、当時パンフレットで見たことも憶えている。気になったのだ。何がだろう。誰と行ったかは思い出せない。なぜ今になってウィーン少年合唱団の、あの男の子が照らし出されたか。書いている私だけ年を重ねて火をかざしている。
私は、過去の上に立っているのだ。一人である。それだけはわかる。歌は歌わない。歌い出すのは過去である。
〇 内子の和蝋燭と燭台
2017. 3. 31
[日用品:灯り]