東青山


〇 今年の新茶が入荷しました

2018. 5. 7 [ニュース]
 

今年の新茶が入荷しました。
季節限定の商品となりますので、この機会に是非お試しくださいませ。
詳しくはこちら。


 

〇 ステム

2018. 3. 20 [日用品]
 

宙吹きステムグラス

 カタカタ鳴る


 序破急の破は、型どおりに物ごとは進まずに破れるから、よって展開はその名が示すとおり開いていく。散歩しているとふと、そんなことが頭をかすめた。坂道を上り切ったとき、その向こうにはなにも建物の見えない、雲が流れる空だけを見たからだろうか。つまり型にはまってもその内容をもってすれば型どおりにはならなくて、意の外へと導いてくれる。その内容とは。まずはいいと胸を張って言えることだ。自分が自分を褒めてあげられるすなわち「私」のことである。型あってしかり、型から入ってしかり、けれどもその先があることを「私」は分かろうとすること、「自分を疑えってことだよ、〇〇くん」そのひとはこうも言ったのだった。型におさまればただの型、しかし型なきものはすぐにガタが来る。うまく言うなあと思ったのだろう。グラスの水を一口飲んだ。いつもの照れかくしだ。規則を駆使して自由になる、という言葉がある。規則を無視して、自由、なんて言ってると痛い目にあう。そういうことを分からないままデザインというコトバに足を載せてふんぞり返っている人。ふと静かになった。声が途切れた。「なあ。〇〇くん」僕はそのひとを見た。そのひとは通りに目をやっている。「きみにアートをやらせてるおぼえなんてないんだよ。わかるだろ、そのぐらい」グラスが音を立てた。カタ。膝がテーブルに当たった。ガタ。俺の言うとおりにやれって、そう言えばいいのに。俺が規則だ、俺の言うとおりにやってれば間違いはないって。遠回しな言いよう、だけどけっきょく溢れ出す言葉に追いつけなくて。ほんとうのところ人と話すのが大の苦手なのだ、それを悟られまいとするのか、ときに横柄に見え、それでも言葉は選ぼうとする、でも二進も三進もいかなくなって。そんなときどこかに手とか足とかぶつけてしまう。腹が立つひとだった。〇〇くん、と言うときはだいたい怒っている。そもそもひとの目を見て話さない。だけどそのひとは、僕をいつもかわいがってくれた。時折諭す、なだめる。そして褒める。褒めるときは大阪の言葉が全開になる。照れるのだやっぱり。でも全開で褒める。こっちも照れる。不意にごはんに誘う。まったく飲まないひとなのにずっとつきあう。歌が上手かった。『ムーンダンス』を流暢な向こうの言葉で歌う。キザ、ではおさまらない、「すごいなあ」って声を漏らした。そういう場に流れてしまったとき、それでも頑なに歌わない人がいるけれど、そんなふうにそのひとも見える、だけど歌うときはしっかり歌い、でも歌ったあとは何ごともなかったかのように座る。僕がそのひとのことを大好きだったのは、そのひとが見誤って(たまにだったけれど)、失敗したとき(プレゼンとか)、そういうときちゃんと目を見て謝ってくれる。そのときだけ目が合う。それ以外の言葉は付け加えることもしない、ただ謝る。目は嘘をつかない。そのひとの目は鋭すぎるのだ。その自覚もあってなのか、懸命にもみえるように目を合わせようとしなかったのかもしれない。だんだんそのひとがかわいらしくも思ったのだった。目で、人を傷つけやしないか、そう思っていたのだろうか。

                        
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〇 四寸皿「赤丸」

2018. 1. 9 [日用品]
 

古伊万里写しの取り皿

 取り皿


 いつも行く飲み屋には大体いつもと同じ面子で、ほとんどいつもと同じような戯言を肴に、これもまたいつものように笑い合いながらほんの数時間を過ごすのだけれど、そんなときふと気付いたのは取り皿である。取り皿に、いつのまにかいろんなものがのっかっているのだ。それも僕のだけ。そうか。というのは、しゃべるほうが優先されてなかなかツマミを口に運ばない、だから頼まれた数品の料理皿にはそれぞれぽつんと一つだけ残っている。焼き餃子とか揚げ出し豆腐とか。きっと僕宛なのは分かってはいても、この期に及んで、一つだけということに手を伸ばすことが憚られる。そのうちそういうことも忘れてしまってまたしゃべっているわけだから、ほかの連中がいつのまにかそっと配給してくれるのだ。そうやって取り皿はいつのまにかいろんなものがのっかっているのだった。万事、料理がのっていた皿はやっと片付けられていくのだけど、別に皿を片付けるために取り皿があるわけではないし、連中だって片付けるためにそうしているわけでもない(ちょっとはそれもあるのかもしれないけれど)。ようはまわりに気を遣わしてしまっているのにかわりはなく、どっちみち面倒のかかるやつなのである。というわけで、手もとの取り皿には冷たくなったツマミの面々、たまに齧りついてはまたしゃべる、大して面白くない話にも笑ってくれる、片付けられるべきは僕なのかもしれない。よって取り皿は取ることもないまま、のせられて、のせられているのをいいことにしゃべりつづける。
 給食も食べるのが遅かった。クラスメートの机が一斉に後ろに下げられても、逆さまの椅子の谷間で挟まれるようにして食べていた。そのうちオーナリが長箒の柄を切先さながら僕に向けて「めんどくさいやつ」ぎっ、と睨みつける。それでもかまわず埃の舞うなかで食べつづけた。「たっちんはそうやっていつもサボるんだから」学級委員のタエちゃんが言う。「違うんだよ、聞いてよだって」もぐもぐ。「ずーっとしゃべってるからよ」とミドリちゃんは振り向きもしない。黒板の上のほうを拭いている。ミドリちゃんはクラスで一番背が高い。そういえば、たしかにあのころはよくしゃべっていた。お調子者だった。もう少しあと、ある時期から、誰ともしゃべらなくなった。いろいろあったのだ。そういえばミドリちゃんは早くに結婚して双子を産んだんだ。とここでとやかくそういうことについてしゃべり始めると切りがないから止しておくけれど。飲み屋では、小学生並みにしゃべる大人になってしまった。面倒をかけているのはやっぱりかわらない。
「自分で取りなよ、ねえ」
 女の子の強い声がしてハッとした。ぎっ、と向こうから僕を睨みつけている。ぼ、ぼく? 初対面、黒づくめのパンク、シド・ヴィシャスぐらいあるのか、腰が高い。僕はうろたえた。あわてて取り皿、取り皿、って探すけど、えーっと、と目を上げる。すると取り皿らしきが人から人へと回されていろんなツマミがのせられてどうやらこっちに近づいてきて「はい」だれ?「あ、ありがとうございます」僕はその取り皿を取るにいたる。「取るのは取り皿じゃねーし」って叱られはしなかったけれど女の子とまた目が合った。えーと、いったい今日はなんの新年会だっけ。知らない人たちに囲まれて僕は何をしゃべっていたんだっけ。たくさんのっかった取り皿片手に、取りあえずそばにあった唐揚げを一つ、取ってみる。のっからない。彼女は隣の子としゃべっていた。ミドリちゃんの顔を思い出した。「寝てません?」誰かが言った。


 この四寸皿は

 赤丸、と名付けられた古伊万里の「写し」である。熊本の天草陶石を素地とし、長崎波佐見でこしらえた。轆轤で手挽かれたのち、素焼をし、秞をかける。それから本焼き、再度轆轤の上で、すぅーっと筆を走らせ上絵三色の独楽紋を描き切る。さらに上絵焼き。特筆すべきは赤の色だ。いわゆる「明か」である。その発色はかつては鉛に頼っていたのだけど、食の安全を鑑み鉛抜きで試作を重ねて重ねて、独自の「明か」。見つけちゃった。
 むかしむかし17世紀から18世紀へと遷るさなかに誕生したと言われる伊万里。当時は「今利」とか「今里」だったらしく、なるほど、「今」かあ。じゃあその伊万里の風情を2018年の「明け」にと。明かしちゃえば、回る独楽に見立ててまずはご紹介、と思った次第。どうか円滑にことが回りますように、なんて遅ればせながら新年めでたし、めでたしなのだけど、そっか、赤丸。それも急上昇、となればなおのこと縁起もよろしいようで。

 商品名  赤丸
 素材   天草陶石、柞灰秞、上絵具、呉須
 製造   光春窯(長崎県波佐見町)
 デザイン 杉本理
 制作   東屋
 寸法   径135 × 高28mm
 重量   130g
 価格   3,888円


四寸皿「赤丸」  

 

〇 クラシック料理バサミ

2017. 12. 27 [日用品]
 

Zwillingのキッチン鋏

 絵を前にして


 何んでもかんでも手当たり次第に美術展に行っていた。若かったからどんなものでも見たいと、いや、今のうちに見ておいたほうがいいよなあ、なんて錯覚に縛りつけられていたのかもしれない。今はもうそういうこともなくなっていて、美術館から足は遠のいた。思えばあのころの「何んでもかんでも」持ち込んでくる泡みたいなご時世にまんまと足を取られていたように思う。本棚の片隅にそのころの図録が並んでいるのを見て、何んの脈絡もない背文字に、何んの感慨も浮かんでこない。マチス、ルソー、ポストモダン、ダダ、構成主義、コスタビ、フォンタナ、マグリット、横尾、ゴッホ、ヘリング、フリーダ、ボロフスキー、大観、ロンゴ、コクトー、コクトー、シーレ、靉光、シーレ、世紀末、クリムト、ピカソ、ヌーヴォー、ルノアール、デコ、ワイエス、未来派、忠良、1920年代、ロココ、フジタ、ピロスマニ、エトセトラ、エトセトラ、きりがないんだけれど。シーレなんてそういえば何度も足を運んだなあ、なんてぐらいのことは覚えていて、そのころに付き合っていた女の子の顔がうっすらと思い出されるし、『抱擁』を前にして二人でずっと立ち尽くしたことも忘れてはいないけれど、なぜか背中越しの光景としてしか思い出されないのは、二人で見に行った、という行為そのものに酔いしれていたのだ、きっと。その女の子で思い出されるのは、コクトーの交流のあった作曲家の演奏会で、若杉弘が指揮だったと思うけれど、その子は最後まで僕の横で眠っていた。で、ちょっとだけその子のことが嫌いになった。え、興味あったんじゃないの? そんなことに傷ついて、そんなことで機嫌が悪くなって、後々にそんな些細なことが別れる原因になるのだった。やっぱり若かったのだ。というより薄っぺらいなあ。くだらないことがくだらなくない理由としてまかり通ったころ。ただただ懐かしい。あの白髪の指揮者ってコクトーにどことなく似てなかった? なんて言葉をずっとずっと後になって、もう何んの関係もなくなったころに本屋でばったり会って言われたものだから、何んで今? と思ったし、その場所がよく二人で並んで背文字を物色した似たような趣味の書架の前だったのだけれど、そんなふうに並行しながら、だけど別々に時間は経っていたのだった。交わる時間と場所が根っこから間違っていたのかもしれない。
 こういうこと、思い出して文章にしていると、台所に立つ妻の背中を見ながら、何かとっても悪いことをしているような気がするのだけれど、さて彼女とは一体何を見てきたんだろう、と考えれば、たしかにいろんなものを一緒に見たのだけれど、二人で見に行った、という行為そのものにもはや酔いしれることもなく、ただ横にいてくれて、同じものを見ていることが当たり前になっている。ん? 当たり前、かあ。「当たり前」って当たり前に書き付けてしまう自分はやっぱりずーっとだれかに寄りかかっちゃってんだろうなあ。と、書きながらこんな話を思い出した。男と女がベッドで最初で最後の一夜、二人の間には抜身の刃劍が横たわっていた、だとさ。君と二人でいつか、『抱擁』を見ることができたら、僕はとっても嬉しい。なーんて、「え? なに? 聞こえないんだけど」と、バッサリ、やられそうだ。


 このハサミは

 台所を前にして。当たり前のようにそこにありたいツール。料理バサミである。もっと言えば「食卓」に必要不可欠なミッションを万能にこなしてくれるのだ。肉や野菜、乾物など、食材を切るのはもちろん、缶詰を開ける、栓を開ける、ネジ蓋を回す、エトセトラ、エトセトラ。刃部およびハンドルともども硬度の強いステンレス素材でこしらえてあり、当たり前にそこにあるために、耐食性、切れ味の持続が持ち味だ。「クラシック」と銘が打たれているとおり、1938年から世界で愛されてきたロングセラー。手の届くところに、一挺。是非に。
 さて、来る年も良いスタートを切ってくださいませ。切に。

 商品名 クラシック料理バサミ
 素材  刃部/ハイカーボンステンレススチール
     ハンドル/ステンレス鋼(サテン仕上げ)
 製造  ツヴィリング(Zwilling J.A.Henckels)
 寸法  刃渡り/90mm、ハンドル/110mm
 重量  149g
 価格  16,200円


クラシック料理バサミ  

 

〇 年末年始の営業のご案内

2017. 12. 7 [ニュース]
 

いつも東青山をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
下記の通り、年末年始の営業をご案内いたします。

2017年12月28日(木)17時まで
2018年 1月 5日(金)12時より

尚、インターネットストアはご利用いただけますが、
商品の発送については休み明けの手配となります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。




 

〇 銅器/茶匙

2017. 11. 20 [日用品]
 

萩の徳利

 反復と加減


 父は製本屋だった。私がまだ、いわゆる子供のころ、工場を手伝うことがままあった。丁合いを取るのがおもだったが、あまり好きではなかった。機械の音がうるさいし、機械がやっているそばからその数十倍の手作業の煩わしさがいやだった。父の手はそれでも捗っていた。同じ動作が同じ本を拵えつづける。べつに捗っていたわけではないのだ、手を動かしつづけることがあたりまえのことで、それが父の生活だった。そのころは、そういった生活にいっとき付き合わされているだけだ、そう思っていた。大した日数でもないのに、同じことを繰り返すことを強いられている、そんなふうにしか思っていなかった。どうにも煮詰まったときはトイレにしばらくこもったこともある。こうやって時間がたてば、何も見ていなかったことぐらいは分かる。父の毎日は私の毎日で、父の生活は私の生活でもあった、ということを分かろうともしていなかった。
 昼休みに父はインスタントコーヒーを入れる。瓶詰めの顆粒だ。蓋を開けるとどんなに中身が減ってもあの匂いがする。あれは香りではなく、押し付ける匂いだった。糊の匂いのする工場をますます際立たせるのにうってつけだった。よく憶えているのはそのときの父の手つきだ。蓋を開け、その蓋の裏の縁に、コンコン、と瓶を傾け軽く小突くようにして二回当てる。すると瓶の中から顆粒が流れ落ち、今度はその蓋の顆粒が二つのカップの縁にコンコン、コンコン、とそれぞれ等分に分けられる。それから魔法瓶の湯を注ぐ。どこを取っても同じ加減である。私はうつむいてじっと顆粒の溶けていくのをながめる。いつも同じ、同じだから味も同じ、そうやって昼休みも同じ繰り返しだった。きまって同業のおじさんたちが入れ替わり訪ねてくる、それも同じ。父のコーヒーを必ず飲む、それも同じ。コンコンと、コンコンと飲んでいる。どう見ても暇つぶしにちがいなかったが、それも繰り返される。あるとき、そのおじさんのなかのひとりから、父の若いときの話を聞いた。父は「レギュラー」という渾名で呼ばれていたと言う。真面目でこつこつと、間違いのない男。私はそういう父がつまらないと思うのに、そのおじさんはそれこそコンコンと語ってみせるのだ。「おやじさんの仕事を見れば分かるだろ。仕事というのは出来上がりのことだ」父は奥の部屋で背を向けて、コン、コン、と紙の束を揃えていた。
 父が拵えた本をたまに手に取る。これと同じものが今もそれぞれどこかにちゃんと壊れず存在しているのだ、と思っている。それが人を介して同じものではなくなりながらも等しく残っていることを思う。病気で倒れ、手が動かなくなってしまったとき、父は千切られた。徹底的に。そして決壊した。無口な父からあのときばかりは粗い粒の止めどなく流れ落ちるような音がずっと聞こえつづけていた。そして、消えた。
 私は本を手に取るが、その私の手もとに、コンコン、と何かを言う。同じものを作る美しさを、遠くに思う。


 この茶匙は

 銅器である。銅は抗菌力があり茶器に適す。この茶匙は銅地金に錫めっきを施してある。平型と梨型。もちろん仕事は丹念である。同じ素材で茶筒もある。大か中なら、平型に限ってだが茶筒の中蓋の上に載せることができ、上蓋を閉められる寸法に設えてある。茶匙と茶葉は別々に収められ、茶葉をいためることがない。(茶筒の詳細はこちらまで。)梨型は、平型に比べて深い作りだ。茶葉に限らず、たとえばコーヒー豆や調味料など、目安のスプーンとしてもお使いいただける。平型か梨型か、匙加減でお選びいただきたい。

 商品名 銅器/茶匙
 素材  銅、錫めっき
 製造  新光金属(新潟県燕市)
 制作  東屋
 寸法  平型 長70× 幅35× 高5mm
     梨型 長90× 幅44× 高13mm
 価格  平型 1,512円
     梨型 2,592円


茶匙 平型  
茶匙 梨型  

 

〇 送料変更のお知らせ

2017. 9. 25 [ニュース]
 

いつも東青山をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
2017年10月1日より、ヤマト運輸の宅配運賃改定にともない、
当ストアにおきましても送料を変更させていただきます。
何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。




 

〇 「月光値千金」展

2017. 9. 8 [イベント]
 

京都大吉とさる山、内田剛一の酒器展

 「月光値千金」展

 毎年恒例の展示会のお知らせです。秋の夜長をたのしむため、京都の大吉さん、麻布のさる山さん、四日市の内田鋼一さん、御三人が酒の器と道具を列べます。初日夕刻には、展示の器でお酒も振る舞いますので、ぜひお立ち寄り下さい。お待ちしております。


2017年9月23日(土)
       24日(日)
       12:00~19:00











画 立花英久

 

〇 立花英久の塑像展

2017. 7. 28 [イベント]
 

立花英久の塑像展

 立花英久の塑像展




2017年8月5日(土)から
8月14日(月)まで(会期中無休)
12:00~19:00


























styles of untitled / sculpture
hidehisa tachibana's exhibition
August 5 - August 14, 2017
12:00-19:00


 

〇 店舗営業についてのお知らせ

2017. 7. 24 [ニュース]
 

8月5日(土)より14(月)まで「立花英久の塑像」展を開催いたします。
つきましては、会場準備のため8月4日(金)は休業いたします。
何卒ご了承くださいませ。




 

〇 配達時間帯指定についてのお知らせ

2017. 6. 13 [ニュース]
 

いつも東青山をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
2017年6月19日より、ヤマト運輸の配達時間帯の指定枠変更にともない、
12時ー14時の指定枠を廃止、あらたに19時ー21時の指定が可能となりました。
ご不便をお掛けいたしますが、何卒ご了承くださいませ。




 

〇 因州和紙の便箋と封筒

2017. 6. 8 [日用品]
 

因州和紙の便箋と封筒

 手紙


 ブルータスを取ろうとして左手を差し向けたら、小口にかすめて中指の爪の生えぎわを切った。うすく血がにじんだ。ブルータスお前もか、そのまま陳列棚に戻した。ブルータスお前もか、なんてそのとき思ったかどうか、それとも今思いついて書いたのだったか、ひとつたしかなことはもうブルータスなんか立ち読みもしないし買いもしないということだったし、そんなことより、ケー君の顔がかすめたのだった、それだそれ。
 <お前も>の<も>というのは、そうやってほかの雑誌も読まなくなった、ということなだけだ、そんな些細なことであっさり何かをやめてしまう、そーゆーことがたびたびある。ケー君のことは<お前もか>そのものにかかっていてそこにケー君の顔が浮かんだことになる、だからといってブルータスがケー君のことではない。指を切った、何かが失せた、うん、たしかにそーゆー粗忽なやつだったのだ、ケー君お前は。ということはつねづねわたしが失せればケー君が現れるということか。たとえばコンビニの店員なんて、一リットルの水を三本買ってあいつそれを一つの袋に入れようとしていた、そこにケー君登場、でもよかったわけで、でも店員はケー君じゃない、ねえ、せめて二つに分けてよ、あたしが持てると思う?
 で足もとに二袋置いた。たとえばそこから指を切って、呆然となって雑誌の棚のガラス越しの通りを見たとする、するとケー君がこっちを向いて立っていた、それでもよかったわけだ、でもいるわけもなかった、だけどいても不思議じゃなかったではないか。あるいはとなりに来てあのころみたいに「もう帰ろ」って肩を揺すってくれたってよかったじゃない。指がひりひりする。
 手紙。ずっと取ってある。なかに写真が添えられていて、ともだちと三人で写っている。手紙は、ああそういうことあったね、おぼえがある、なんて言いながら読んでいる。引き出しの中に鍵があって、その鍵は前にあなたといっしょに住んでいたアパートの鍵で「これまずいんじゃない」と言ったら「そんなの、もうちがう鍵になってるよ。思い出だよ思い出」って言うから「あたしは持ってないよ、そんなの」そう言うとケー君は黙った。そのことを、あれは寂しかったな、なんて書いてあって、男はそんなふうにいつも鍵に執着して肝心の錠のことは考えてもいなかった。あのときなぜケー君の家についていったか思い出せない、あのときなぜひとの机の引き出しを開けたかも全然おぼえていない、だけど鍵は見たし触った。
 写真。わたしの顔があんまり乗り気じゃない。こっちを向いてはいるけれど不機嫌といっていい。香港に行ったのだ、四人で。けいこちゃんとその彼氏とケー君とわたし。けいこちゃんの旺盛な好奇心で(多分だけど)香港になっただけだった。宿泊先のゴールデンイーグルホテルの前で撮った、だけどケー君は写っていない、ケー君が撮影したから。わたしが持っているケー君の写真はもうこれだけだ。ケー君の写真、ってだからケー君は写ってないし。でも写真のわたしはケー君を見ている。ケー君は不機嫌なわたしを今も見ているということだ。わたしは失せる、ケー君になる。なんと。ひりひりする。
 こんなふうにあなたのこといくら書いたって、書かれなかったほうにあなたはいる。
 手紙だけ、引き出しに仕まう。

                                                            
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〇 定休日追加のお知らせ

2017. 6. 5 [ニュース]
 

いつも東青山をご利用いただきまして誠にありがとうございます。
2017年6月より毎週火曜・水曜の定休日に加えて
毎月第3木曜日を定休日とさせていただきます。
ご不便をお掛けいたしますが何卒よろしくお願い申し上げます。




 

〇 内子の和蝋燭と燭台

2017. 3. 31 [日用品]
 

内子の和蝋燭と燭台

 燭台


「記憶というには遠すぎて実感がない。遠いのではなく、奥にありすぎるのかもしれない」(保坂和志『カフカ式練習帳』より)幼年の遊びを思い出すくだりである。たしかに「記憶というのはそれを意識して引き出そうとするとこれが案外労力を使う」のだけれど、読んでいたらふと、蝋燭の火を持ってどこかに行こうとする暗闇の私の姿が見えてきた。ひらめきは電灯に喩えられるが記憶は蝋燭の灯火が似合いそうだ、なんてことも思った、はずである、だからまた読んでみたのだった。はたして前に読んだときいったい何を引き出そうとしたのか、そこまでのことでもなかったのかもしれない、立ち止まらず先に進んだのだろう、か。とある過去に火がつけばほのかにその周辺をも照らし出す。ならば歩き出してみようと思いは動くが、あるとき、引鉄が何んだったのか、もはや手には蝋燭の火だけ、一人取り残されたような、ということがよくある。
 むかし、舞台をこしらえたとき。女の人が蝋燭の火をかざして男に近づいてみるのだけれど、その男は記憶だった。記憶のなかの男は彼女にもう何もしてくれない、してくれたことすら思い出させてもくれない、してくれなかったことは思い出すもなにももともとない、それでも女は男に近寄ろうとする、があまりに奥にありすぎるのだ。男は消えかかる、が消えはしない。火はいつか消える、がまたつける。自分で吹き消すこともある、がまたつける。引き出すのは男の言葉ではなかった。自分の記憶である。狂うと記憶は妄想に引火する。ということを思い出した。その周辺もぼんやり明るくなりはじめる。吹き消した。
 夢は、なかなか思い出せない夢がある。目を閉じなおし、火を灯し、かざしてみても追いつかない。追いつかない、と書くのは、逃げるからか。好きだった女の人が出ていた、それは知っている。だからなおさら追いつこうとする、のは何んのためだろう。逃げるのは夢か、彼女か。ただ懐かしいからか。ぼんやりとは見える、のだけれど手が届かない、それがほんとうに彼女なのか、もわからなくなる。なのに彼女のことを思い出している。なにか大事なことを言ったような、だから彼女の声が先に思い出され、それは現実のあのときの返答のような気がするから、そうするうちにあのころのことをもっと思い出そうとしている。夢よりさらに奥である。
 小さいころ、ウィーン少年合唱団のリサイタルに行った。二列目の右から三番目の男の子の顔は今でも鮮明に思い出すことができる。彼は私よりも三つ年上で、当時パンフレットで見たことも憶えている。気になったのだ。何がだろう。誰と行ったかは思い出せない。なぜ今になってウィーン少年合唱団の、あの男の子が照らし出されたか。書いている私だけ年を重ねて火をかざしている。
 私は、過去の上に立っているのだ。一人である。それだけはわかる。歌は歌わない。歌い出すのは過去である。

                        
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〇徳利

2017. 2. 13 [日用品]
 

萩の徳利

 宿る


 手の触れることの、おどおどしてしまうあの感覚を忘れて久しい。女の子の手のことである。目の前でしゃべることすらできなくなってしまう、だらんと下がったその手を取りたい、そう思いながら、その手の甲に隠されてしまっている手のひらの、きっと柔らかいだろう感触を想像して、ぼーっと下を向いてしまっていた。赤いミトンをした日でも、その内側の手が赤くなっているか、気になっていた。寒いね、と言って、両の手をこすりながらそこに息を吐く、文庫本みたいにすこーし開いたその手のなかにどんなお話があるのか、読みたくてもそうかんたんに見せてくれなかった。「読めない」のが、あのころの大切な物語だった。
 がさつになんでもかんでも触って、音を立てて置いて、また次のものをひょいとつかんで持ち上げて、ほんとうに目はこころは見ているのかも疑わしい、と考える時間も持たせてくれないまま、またカタンと置く音がひびく。そのひとのせいではない。その「物」に、なにか力が足りないのではないかと思うことがある。その力は、なんという言葉が相応しいのか、ずっと考えている。「物語」がないのだろうか、そもそも言葉を持っていないからだろうか、気楽とは手軽とははたして力なのだろうか、とか考えている。里見弴が「『たい』を『たい』せよ」と言ったことを思い出す。互いに「触りたい」の「たい」のところに強調を忘れてしまっている、そんな気がする。


 この徳利は

 萩焼である。山口の大道土を主成分とする素地に石灰釉を施したものだ。と、そう簡単に要約できるものでもないが、低温でじっくり時間をかけて焼くため、焼締は弱く、その分ざっくりと柔らかい印象で重宝されてきた伝統がある。が、この「hagi」と名のつくシリーズは、従来のそれよりも焼締を強くし、徹頭徹尾「フォルムを生かす」ことに努めた。高温で、およそ1,290度にまで上がれば「萩」特有の赤味を消すおそれもあるが、軟調で土味のまま、たとえば「雨漏」と称される一見経年変化の景色として愛でられるものでも、そこからカビを生じさせてしまうただの汚れとなるのなら、十分焼き締めることで、窯変による釉美こそを保つこと、それを美しとした。
 1,200度後半、それでもなお「萩」の持つ特異な釉調をこしらえる。それには、窯の中でどこに配置して焼成するのがよいか、温度管理が試される職人の技がある。あるいは、底部(畳付)にもあえて施釉する。器全体に釉を掛けて焼成するのは手間のかかる仕事だが、膳やテーブルを傷つけないよう、こころ置きなく万事に使ってもらいたい思いを込めてみる。
 萩の窯元の底力が、萩の現在形を強く輪郭をもって描き切る、長くお付き合いしてほしい「hagi」シリーズの酒器である。

 商品名  徳利(小、「hagi」シリーズ)
 素材   萩土、石灰釉
 製造   大屋窯(山口県萩市)
 デザイン 猿山修
 制作   東屋
 寸法   径80mm × 高115mm
 容量   約180ml
 価格   5,832円


徳利   

 

〇 ワインクーラー

2016. 12. 27 [日用品]
 

木曽椹のワインクーラー

 空は青く明滅する


 駅前の巨大なクリスマスツリーが解体されている。夕刻その光景を見上げながら角打ちで一杯やれば終電である。電車は急行明日すら早く来る気がしていつの間にか近所の公園を歩いていた。家に帰ると映画は点けるが見ているようで寝てしまい明るくなれば今日がある。さびしくはないかと誰かの声が聞こえて歯ブラシだけがその声を打ち消すみたいにせっせと動いている。今日は休みだと思い当たればいつの間にか近所の公園を歩いていた。公園を抜けるとヘルメットをかぶった作業員が梯子にのぼって電柱の上にいる。その光景を見上げながら取り付けられるのは監視カメラだとわかってひとたび道行きを眺めると等間隔に梯子にのぼった人がつづいている。取り付けるということはきっと何かが起こりそうな予兆を意味するし何かが起こりそうな場所にカメラを設置するのは人である。カメラを見上げながらその先のずっと向こうには空があってこっちを見下ろしている。何かを映しては消してまた映す。もう僕らじゃない何かも映しては消してまた映す。


 このワインクーラーは

 見てのとおり木製である。木製がゆえに熱を伝えにくい。よって氷を溶けにくくして万事酒を冷やす。そのくせ持っても手は冷やさない。
 木材は木曾椹である。特段椹は水に強い。強いがただし留意を飲み込んでご使用いただきたい。まずは水を充分に吸わすこと。手始めに水を満たして置いておく。すると椹は膨らんで密になる。よって水漏れを防いでくれる。表面に水滴も付きにくくする。手間のかかる道具だが手間をかけて永くお付き合いできるすぐれものだ。水を吸ったり乾いたり。そうだ。生きている。道具も暮らしている。
 タガはめったやたらに外れない。が万が一はいつでもお声をかけていただきたい。お直しさせていただきます。

 商品名 ワインクーラー
 素材  木曾椹、銅
 製造  山一(長野県木曽郡)
 制作  東屋
 寸法  径186mm × 高230mm
 価格  11,880円


ワインクーラー   

 

〇 薬味寄せ

2016. 10. 31 [日用品]
 

竹の薬味寄せ

 部品


 誕生日の贈り物に妻からガットギターの弦巻きをもらった。壊れたまんまギターは放ったらかしになっていたのだった。さっそくドライバーで左右を外し寸法を見計らってネジ穴を開け直す。万事取り付けて、弦も張り替えた。
 チューニングしてみた。ぽろんと弾いてみた。壁に立て掛けてみた。真新しい弦巻きが金色に光っている。うれしい。多分放っておかれたギターよりもうれしかった。
 ひとは、新旧雑多な物語の寄せ集めでなんとか立っていられる。どれが「私の物語」だなんて言えそうにないし、「これが全部」と語れそうもない。
 立て掛けられたお前はどうだ。たとえば新調の気分とか。
 ギターを構え直して、運指の練習をする。クロマチック、ドレミ、コード、アルペジオ。もっと練習すればきっと「ギターは私の一部だ」なんて言う日が来るかもしれない。「どの口が言うの」と妻に言われるのがおちだけど。
 ともあれひとはずっと部品を必要とするものだ。何より贈り物が部品なのだった。ぽろろろろろん。


 この薬味寄せは

 すりすりしたあとの名脇役である。
 おろし金の上の生姜や山葵をどうすれば気持ちよく寄せ集めることができるのか。指先なんてもってのほか、箸にも棒にもかからない。そもそも「薬味寄せ」なんてなかなか聞かないけれど、ご家庭のおろし金とタッグを組ませてみれば一目瞭然である。
 すりすりしたあと、すみずみ箒みたいに寄せ集め、ぎざぎざの爪に絡みついたものも逃したりしない。理由は竹にある。実はこの「薬味寄せ」、茶筌(ちゃせん)からこしらえた。しゃかしゃか茶を点てるあれである。茶筌は、竹の皮を三十二本、多いときは二百四十本ほど細かく割いて穂をつくる。その工程で一本でも折れてしまうと茶筌の用は足さない。失敗作はあえなく燃やされるさだめである。そこに目をつけたのがこの「薬味寄せ」だった。失敗は形を変えると生き延びる。どこか教訓めいた話だけれど、その失敗を三つ四つに割き直し、穂先をすこーし整えてみる。竹ならではの腰の強さとしなやかさ、茶筌の本質をそのまんま引き継いで、生まれなおす。形態は機能に準ずる、というけれど、生まれは茶筌、名は「薬味寄せ」とあいなったわけだ。
 あると便利、これもまたほんのちっちゃな生活の部品なのだ。
 ちなみに、おろし金のお掃除にも一役買います。

 商品名 薬味寄せ
 素材  淡竹(奈良県生駒市)
     絹組紐(京都府宇治市)
 制作  木屋
 寸法  長80mm × 幅20mm
 価格  648円


薬味寄せ   

 

〇 姫フォーク

2016. 9. 29 [日用品]
 

真鍮のミニフォーク

 姫


 母はずっと「姫」と呼ばれていたらしい。伯母から「あの子は姫だからね」と耳打ちされたこともある。小さいころだったからそのときの状況は思い出すことができないけれど、あれはきっと嫌味だった、蚊を払うように耳はちゃんと憶えている。父からも生前「あのひとはむかしっから姫じゃけえのお」と呟かれた。このときのことは今も憶えている。母は石みたいに炬燵で固まっていた。だれとも目を合わそうともしなかった。ま、詳しい話はよしておくけど。要は、お転婆でわがままでそれでもまわりからは大切に扱われて、持ち上げられるままいつのまにか先頭を歩いている。そのくせだれかいないと何んにも務まりそうにない。そんな母が年を取っても姫でありつづけるのは、想像に難くないことだ。ひとはそんなに変わらないし年を取ればなおさらのことである。けれど、姫もからだが弱れば、お転婆はただの婆である。家から一歩も出ないとなれば、城の上にずっと幽閉されているみたいで悲しい。下から「姫、姫!」と叫んで、たまに窓から顔を覗かせる、ちょっと安心する、という繰り返しだ。遠いとなおさら姫の声はか細く聞こえる。
 この夏帰省したときに、朝、父の部屋からテレビの音が聞こえる。母は違う部屋でバラエティを見ている。「なあ、あっちテレビつけっぱなしじゃん」仏壇のあるその部屋を開ける。『題名のない音楽会』をやっていた。父が毎週欠かさず見ていた番組だ。線香の残り香を嗅ぎながら不意に、父がそこにいる、そこで聞いている、届いている、と、はっきりと分かったからびっくりした。振り返ると母はバラエティで笑っていた。
 あのとき、「たのんだぞ」とかたく握り返してきた手は「姫のこと」に違いないと今になって思い返すのだ。「たのんだぞ」なんてありきたりだけど実際言うんだ、って思ったよ。父の写真の顔が姫を目で追う爺のそれに見えた。


 この姫フォークは

 ただならぬフォークです。あるときは黒文字のように、あるときは爪楊枝のように。けれども心地のよい重みが、口に運ぶたんびクセになる。箸が止まらなーい、ならぬフォークが止まらないのだ。
 素材は真鍮。使い易い形を見つけると、それはフォークの原形、ヨーロッパの昔むかしに還っていきました。洋のようで和の面構えにもなる。小さいけれどやっぱりただものではおわらない。

 姫、ヒメと 爺が呼ぶ声 秋の口

 和菓子に果物、チーズやオリーブなんかにも合うあう。8センチちょっとだけど、ながーく使っていただけるその名も「姫フォーク」。くれぐれもどこに行ったか探さぬよう、目のつくところにお見知り置きを。

 商品名  姫フォーク
 素材   真鍮
 製造   坂見工芸(東京都荒川区)
 デザイン 猿山修
 制作   東屋
 寸法   長87mm × 奥行6mm × 高5mm
 重量   5g
 価格   4,860円(5本セット)

姫フォーク   

 

〇 「月光値千金」展

2016. 8. 26 [イベント]
 

京都大吉とさる山の酒器展

 「月光値千金」展

 毎年恒例の展示会のお知らせ。秋の夜長を愉しむため、京都の大吉さんと東京のさる山さんが、酒の器と道具を列べます。初日夕刻には、展示の器でお酒も振る舞いますので、ぜひにお立ち寄り下さい。お待ちしております。


2016年9月17日(土)
       18日(日)
       12:00~19:00





















写真
手前右 「李朝無地刷毛目大盃」
    (李朝時代初期/継盃)
手前左 「白磁盃」
    (李朝時代初期)

 

〇 知られざる萬古焼の世界

2016. 8. 8 [日用品]
 

萬古焼きの本

 萬古の人と、本


 民のための民のこしらえる器、「民陶」。ふだん馴染みのない言葉の背後には萬古焼の源がある。
 庶民のためのやきものは三重県四日市で産声をあげた。江戸を発露に「古萬古」、「有節萬古」を経て明治に入るとその窯業はひとつの『産業』として敷衍し地場に根付くことになる。平板なもの言いをかりるなら「フロンティア精神」がその『産業』を支えた。フロンティアに活路を見出だす理由は、四日市の周辺に京都や瀬戸、美濃、常滑など既存の窯場が犇めきあっていた必然がある。しかし陶土の調達もままならない環境の裡からどのように「萬古」然の独自性をむくむくと発展させ、その地に拘泥せず海の外にまで裾野を広げることになったのか。この本はおもに明治から昭和を跨いだ成長期における「萬古」の力と知恵、その変遷を鮮やかに開陳する。
 書いたのは、内田鋼一。四日市を根城に作陶する孤高の人だ。内田はとくに『産業』期における萬古の何にも媚びない造形美に惚れる。伝統を凌駕し、あくまで生活圏内から引き出された自由な創意の虜になる。内田も四日市で築窯し独立を果たしたが、数奇な所産を遺した名もなき陶工たちの眼が自身の眼と重なり合うにつれ、現代萬古の風前の灯火に危機感を抱くようになる。四日市への恩返しにも想いを馳せながら、そして何より「萬古」を愛するがゆえに、昨年、まるで火入れのようにいきおい私財を投げ打って萬古オンリーのミュージアムをこしらえた。デザインを視座に収集し、アーカイヴするプロセスはまだ途上にあるが、萬古がそうであるように「やきものになにができるか」を問いつづけ、発信する拠点となっている。
 その彼が、たとえば萬古を「民陶」に括ったといえる秦秀雄や萬古のデザインに多大な影響を与えた日根野作三ら「萬古のキーパーソン」を語り、たとえばデザイナーの皆川明や小泉誠、蒐集家の舟橋健たちとの対話を積み重ね、膨大な写真資料を携えて、アングル、サイズ、ポジションを自在に変えながら萬古の魅力の伝播を試みる。やきものをこしらえる人がアツアツの一冊をこしらえたのだ。タイトルは「知られざる萬古焼の世界」。創意工夫から生まれたオリジナリティと後人へのヒントが真摯に刻まれている。


 この一冊は

 三重県四日市市、萬古工業会館にある「BANKO archive design museum」の公式書籍である。イラストを交えた萬古ヒストリーや、萬古そのもののカタチや色、食の設えなどなど、眼にも愉しい一冊になっている。

 作品名     「知られざる萬古焼の世界
            ー創意工夫から生まれた
                 オリジナリティー」
 著者      内田鋼一
 装幀/デザイン 山口信博、細田咲恵(山口デザイン事務所)
 写真      伊藤千晴
 編集      藤田容子
 編集協力    小坂章子
 印刷/製本   大日本印刷株式会社
 発行      誠文堂新光社
 サイズ     247 × 185mm
 ページ     240頁
 価格      3,780円

知られざる萬古焼の世界